国際交流などの場に積極的に参加している私は、国籍や人種が異なる人と接する機会が多くあります。
また、学生時代にイギリスに数か月滞在していた時は、多くの民族と触れる機会もありましたし、独学で中国語を学んでいることから、積極的に中国人と交流を持つようにもしています。
このような背景から、私自身、国籍や人種などが異なることに対する不自然さを感じることはありません。
しかし、国籍や人種で人を差別するような人を目にすることがあり、中には私の理解を超える異常な感覚を持つ人が目に付くことがあります。
もし、身近な人でそのような人を見かけた場合、「いざ接してみると、人間味があって、いい人もいっぱいいるよ」などと声を掛けたりすることがあります。
そんな時、たいていの人は多少なりとも理解を示し、接する姿勢が少しでも和らぐものですが、中には全くと言ってよいほど偏見や差別が捨て切れず、「何でここまで頑ななのか?」と病的なものを感じることすらあります。
そんな、頑なまでに国籍や人種で人を差別するような人には、一種の共通する典型的な特徴があることに気付きましたので、それらをここにまとめます。
慢心して倣慢
まず、このようなタイプの最も典型的な姿は、慢心して倣慢な一面を持っていることです。
自分が何か優位な立場にあって、他の者は自分よりも劣るというような歪んだ感覚を持ち、どこかで他人を見下す姿勢があります。
従って、どこかで「自分が中心」的な感覚がありますので、周りから正しいことを言われても怒ったり、本人の思い通りに行かないことがあると怒りを覚えたりする傾向があります。
また、どこかひねくれていて、素直さに欠ける面があり、とても「難しい人」との印象を受けます。
教養がなく偏屈
次に、この種のタイプの特長として挙げられる点は、教養に欠けていて偏屈・偏狭なところです。
今や国際化、グローバル化が進みましたし、誰でも割と手軽に海外に行くことができるようにもなりました。
また、国内にいても身近なところに色々な国籍・人種の人もいますから、そうした人々と接する機会は多くあります。
今の時代において、国籍・人種の異なる人と接する機会を持てない、或いはほとんどないなと言う人は、よほどの田舎ものなのか、よほど交友関係が狭い人、又は引きこもりに近い人でしょう。 今は、鎖国中の江戸時代ではありません。
国籍・人種の異なる人と接していれば、普通であれば自然と馴染み、抵抗も差別も無くなって行くものです。
しかし、接するする機会を持てない要因に加えて、教養の無さや偏屈さがあることで、偏見・差別を拭えず、ある種の排他的な拒絶感のような感覚を抱くのでしょう。
人の良し悪しは、人種や国籍で決まる訳ではありません。日本人でもひどい人はたくさんいますし、「最低!」と罵りたくなる人は、身近にいるハズです。そんな簡単な道理ですら、素直に受け止められないのは、教養がなく偏屈であるからです。
偽善的な面を持つ
さて、このようなタイプには、偽善的な面を持つ人がとても多くいます。
上述したように、どこかで自分が中心という感覚がありますから、自分本位な面を持っていて、独善的な感じがあります。
しかしながら、優心して微慢な一面があり、自分を偉く見せようとする姿がありますから、表面的には善人であるかのような振る舞いをします。それでも、自分本位な面を隠し切ることはできませんから、偽善的な面が現れるのです。
表向きは穏やかでも、何かのキッカケがあると、途端に本性を現して、別人のような姿になることがあります。心の奥底に歪んだものを持っていると、何かの拍子に隠しきれずに出てしまうわけです。
このような人ですから、実際とは違う自分自身のイメージを作り上げようとする姿が目に付くのです。
例えば、閉鎖的でありながら、社交的であるかのように見せようとするなどは、よく見る姿です。また、偏屈で教養がないのにも関わらず、人格者のように装う姿もよく目に付きます。
まとめ
以上、国籍や人種で人を差別するようなタイプの典型的な特徴を見て来ましたが、 総じて言えば、器量が無く、人望も無いですね。たとえ、表面的に器や人望があるように見えても、見せかけだけです。
他の国籍や人種を「レベルの低い人間」のように見下すようなことをしていながら、その本人の方がレベルの低い人間であることを自覚していないところに、救いがたい姿が端的に表れています。
世の中には、どんなに諭しても、どのように歩み寄ろうと促しても、全く変わらない偏見の塊のような人が少なからずいます。
そのような人を見ていると、「もはや病気」という感じもしますし、「井の中の蛙、大海を知らず」という諺が頭に浮かびます。
所詮、大海を見たことがない井戸の中に居るカエルには、どんなに海の広大さを説明しても分からないのだと、哀れな感じすらします。
みなさんの周りにもこんな人いませんか。