先日、中国映画「こんにちは、私のお母さん」を観てきました。
この映画は、興行収入が英語以外では2位となる歴史的な大ヒットとなり、日本でも2022年1月に一般公開されることになった作品です。
独学で中国語を学び、日ごろから中国人とのつながりを多く持つ私の視点で、この映画を観て感じたことを綴ります。
目次
「こんにちは、私のお母さん」はどんな映画か
さて、この映画。
タイトルは”こんにちは、私のお母さん”ですが、原作(中国語)では”你好李焕英”と言います。
”你好李焕英”の中の你好は、文字通り「こんにちは」の意味ですが、”李焕英”は人名です。
これは、この作品の監督・脚本を務めたジア・リン(贾玲)の実の母親の名前で、その母親の姿を描いた映画なのです。
母娘のそれぞれの思いや、親子の絆などがコミカルに表現され、また二人の心情を思うと涙が出てくるようなところが中国全土で共感を呼び大ヒットにつながったと言えます。
実は、ジア・リン(贾玲)は女優として実際にこの映画の主役を演じてもいます。
しかし、彼女は女優と言うよりも日本で言うお笑い芸人(中国には、これに相当するピッタリの言葉はないようですが…)みたいなコメディアン。
喜劇女優などとも言われていますが、その分野ではトップスターともいえる人なんですね。
そんなジア・リンが初監督を務めたのがこの作品ですが、初めてにしてこの大ヒットですから、その凄さが分かります。
中国での大ヒットを背景に日本でも公開されることになった訳ですが、私が見る限り、日本ではそれほど人気を集めたとは言えないようです。
私の知り合いが、平日の昼間にこの映画を観に行った時には、同じ観客席で観ていた人は他には3人だけ。
我が家が観に行った日曜日の朝は、他に見ていた人は6人だけでした。
上映数も決して多いとは言えないスケジュールにも関わらずこの状態でしたので、コロナウイルスが蔓延する最中とは言え、少ないと感じました。
中国人と接する機会が多い私が感じたのは、中国人向けに作られていることが日本での大ヒットの妨げになっている点でした。
「こんにちは、私のお母さん」を観て私が感じたこと色々
さて、私がこの映画を観て感じたことには色々ありました。
それをひと言で表現するのは難しいのですが、敢えて言えば、中国外で上映されると、その面白を100%味わうことは困難かなぁと言う点です。
この感覚を伝えるのはちょっと難しいので、思ったことを項目に分けて説明して行きます。
中国の庶民の生活を知らないと楽しみ切れない
まず、私が感じたのが中国の庶民の生活を知らないと楽しみ切れないということです。
分かりやすい例をあげれば、一人っ子政策です。
これは、子供を一人しかもうけることができない制度で、つい最近まで数十年に渡って中国で行われていた政策ですね。
中国独特の政策であることから、多くの日本人もよく知るところです。
でも、これがこの映画の背景にあって、その影響が大きいことをしっかりと受け止めて鑑賞することができる日本人はどれくらいいるでしょうか。
一人っ子政策を政策のひとつとして理解していても、その実態や中国の庶民へ与える影響を身に味わいながら鑑賞できる人は少ないのではないでしょうか。
この映画の中で、母親と父親が結婚するにあたって、「子供は男の子がいいか、女の子がいいか」というセリフが出てきます。
何気なく映画を観た人は、単に女の子が欲しいのか、男の子が欲しいのか、との男女の何気ない会話と捉えるかも知れません。
でも、一人っ子政策の真っただ中にあったこの時代には、「子供は一人しかもうけられない」。
それが当たり前のこととして背景にあるのです。
日本では、もし夫婦が望めば二人目、三人目の子供をもうけることは難しくありません。
一人っ子政策が行われていた当時の中国と比べれば、かなり容易なことです。
だから、一人目に授かった子供の性別が望んでいた方でなかった場合、二人目、三人目にその可能性が十分残されます。
でも、当時の中国はぜんぜん違うのです。生まれたら基本的にその子だけ。(高額な罰金を払えば二人目も可能でしたが、庶民には無理)
つまり、「子供は男の子がいいか、女の子がいいか」というセリフの重みが全然ちがうんですね。
そして、子供を一人しか授かれないからこそ、生まれてきた子供に注がれる愛情はハンパない。
全ての愛情が、たったひとりの子供に注がれるんですよ。だから、親子の絆も余計に強くなる。
また、同時に親がその子供に抱く期待も大きくなります。
逆に、子供にとってみれば、「自分一人しか両親の期待に応えられない」、「子供として親を喜ばせられるのは自分しかいない」との気持ちをもつもの。
そんな大きな背景がこの映画にあるんです。
だからこの映画は、中国の庶民生活が分からないと味わいきれない、楽しみ切れないんです。
逆に言えば、中国内で大ヒットしたのは、そんな庶民の心をつかんだからこそとも言えます。
ちなみにここで挙げた、一人っ子政策は説明のための一例です。
最初の頃のシーンで、红包(ホンバオ)と呼ばれる祝儀袋のやり取りをめぐって食事中にもめ合いになりますが、背景に祝儀に関する中国人の見栄や本音、駆け引きなどが見え隠れしています。
人が集まれば、争うように自慢話をするような国民性も表れています。
今は規制が厳しくなった犯罪行為たる書類偽造なども、当時どこでも誰でも手掛けるようなのが当たり前だった姿が、偽の大学合格通知書という形で登場しています。
中国の庶民の生活を知ってこそ共感が持てる、実感が持てるシーンがたくさん詰まっているのですね。
言葉(中国語)を知ってこそ深みが分かる
次に私が感じたことは、言葉(中国語)を知ってこそこの映画の深みが分かるということです。
この映画の原作は中国語。でも、日本での上映は日本語の字幕です。
だから、多くの日本人は字幕を通して映画を鑑賞することになります。
そこで重要なのが翻訳ですが、観ていて、さすがにしっかり訳されていると感じました。
言葉の意味に囚われず、ストーリーの内容を考慮した意訳に徹しているのですね。
ところが、どうしても言葉の持つニュアンスなどは伝えきれない部分が残るんです。
これは、洋画でも同じで、英語などの元の言語を和訳する場合、直訳すると不自然になることが多いので、映画の内容を考慮して翻訳します。
その時に、難しいのが言葉そのものが持つニュアンスをどのように和訳するかです。
ニュアンスを100%きちんと伝えるのはハッキリ言えば不可能に近いこと。
つまり、意味を100%伝えきれないんですね。
これがそのままこの映画にも当てはまるのですが、英語が義務教育となっている日本では、英語ならそれなりに理解できるのです。
日本は、結果的に英語圏の文化なんかも割と浸透しています。だから、英語の場合、言葉のニュアンスはある程度伝わるんですよ。
でも、中国語はまだまだなんですね。同じ文字(漢字)を使っていながら、言葉や言語としての理解はまだまだ。
結果として、関連した文化なんかも意外と知らないことも多いんです。
例えば、この映画の中で工場長の息子(光林)が芝居をうまく演じることができない姿を見て、気になった司会者が近寄って声を掛けますが、その時に発した言葉が「消えろ」(字幕)でした。
普通に見ていると、「余計なお節介など要らない」と言う意味で声掛けを強く拒絶する姿に映ります。
でも、実際の原語のセリフは「滚你妈的(gǔnnǐmāde)」と言う相手を罵るスラングみたいなフレーズで、この言葉の微妙なニュアンスを知らない日本人が見れば単なる拒絶の一言にしか見えません。
中国人から見れば、強烈に罵倒するフレーズとして映り、工場長の息子の苛立ちを、よりストレートに感じることができることでしょう。
また、光林が「焕英と俺(光林)とは相性がいいと思う」と話したことについて、その理由を問われた時に「欢迎光临(huānyíngguānglín)」と答えたのは滑稽でしたが、この意味が分からない日本人も多かったと思います。
欢迎光临(huānyíngguānglín)とは、店頭で店員がお客さんに用いる定型フレーズで、日本語で言えば、「いらっしゃいませ」に相当します。
中国で、飲食店に入れば、必ず「欢迎光临(huānyíngguānglín)」と言われる、誰しもが知ってる決まり文句なんですね。
光林が言った「焕英と俺(光林)とは相性がいい」の中の、焕英(huànyīng)は欢迎(huānyíng)と、光林(guānglín)は光临(guānglín)とそれぞれ発音が同じだから、焕英光林(huànyīngguānglín)は欢迎光临(huānyíngguānglín)のごとく結びつきやすいから相性がいいって意味です。
発音が同じ別な言葉を結び付けたり、発音が同じ言葉で縁起を担いだりするのが好きなのが中国人ですが、焕英に恋心を抱く光林の無理な結び付けは、さすがの中国人でも滑稽でユーモアラスに見えたことでしょう。
こんなひとつひとつのフレーズも、言葉が分からないと意味がよく分からず爆笑できないんです。
中国国内で大ヒットした作品でも、日本でそれほどまでには至らない要因が分かる気がしました。
近代化した現在の中国とは大きな違いがある
さて次に感じたことは、映画の舞台が近代化した現在の中国とは大きな違いがある点です。
この映画の設定では、2001年から20年前の1981年にタイムスリップした過去が舞台になっています。
従って、登場するシーンの多くは1981年の時代設定で作られています。
中国人に聞くと、1981年と言えば映画のシーンで出てきたように一般の人はテレビなどは買えない時代で、経済力のなかった中国の当時の姿をよく反映しています。
なので日本人から見れば、なんとなく日本の戦後間もない貧しい時代を懸命に生きてきた頃とオーバーラップした人もいるのではないかと思います。
そのような感覚で中国を見ると、「1981年頃にこんな生活していたのか、レベルが低いなぁ」なんて思いを抱く日本人も中にはいるかも知れません。
実際、未だに「中国人は車など乗れず、自転車ばかり乗っている」などの時代錯誤が甚だしい化石のような人に出会うことがありますしね。
でも、現在の中国を見た時、1981年頃とは大違いなのです。物凄く発展を遂げたんですね。
この映画は、今から約40年前を描いた作品ですが、中国における当時と今日とは大差。
日本はそれとは真逆で、「失われた30年」の大きさを痛感してしまいますね。
親が子を、子が親を思う姿が溢れていた
さて、更に私が強く感じたことは、親族を大切にする姿です。
特に、この映画で描かれている親が子供を思う心と、子供が親を思う心を、この映画の核心部分といえるでしょう。
この映画の泣けてくる部分は、全てこれら親子の心情が詰まっている点にあります。
ひとつひとつのシーンに心が揺さぶれれて泣けてくる。そんな映画です。
親の心。そして子の心。色々なシーンからそんな情感がたくさん伝わってきます。
まさに後半は、涙、涙、涙でした。
ある意味、ありきたりな映画かも知れません。
でも、分かっていても泣けてくるんですね。
私が最も印象に残ったシーンは最後、母親がバスで出発する娘を見送る場面です。
母親を気遣う娘は、雪の積もった帰路を歩くのは大変なので母親にバスで帰るよう強く言います。
それに対して、母親はバスのチケットを購入してバスに乗車します。
でも、娘を見送った後、母親はチケットを払い戻してバスを下車して、徒歩で帰路につきます。
娘に心配を掛けたくないからバスに乗ったフリをする親の心。
そして、余計な交通費は掛けず、自身は苦労してでもお金は全て子供のために使おうとする親の心情。
泣けて泣けて仕方ありませんでした。
親族をとても大事にする中国人だからこそ、その心をとらえて大ヒットした。
そう思えてなりませんでした。
こんな人が観るのにいい
映画「こんにちは、私のお母さん」については、評価が分かれるのではないかと感じています。
「大ヒットしたとは言うが、平凡な作品だ。」
きっと、こう思う人も多いことでしょう。
確かに、親子の繋がりを描いた作品は無数あります。
バックトゥザフューチャーのように、過去に戻って奮闘する映画が作られたのはもう何年も前の話。
この映画のどこに新しいテーマがあるのか。そう考える人もいるでしょう。
しかし、これは確かに言われても仕方がないと思います。ある意味、平凡な映画ですから。
でも、親が子供を思う心は人類の歴史がどれほどあろうが永遠です。
そして、その親の恩に感謝して親に孝行を尽くす。これも人倫の根本です。
だからこそ、この映画が多くの中国人の心を捉えることができた。そう思うのです。
親子の在り方を考えたい人、親子の絆を味わいたい人、そんな人たちに見て欲しいですね。
そして、私が思うに、下記のような人は、なおさら見る価値があると思います。
- 中国語に興味がある
- 中国文化や生活余様式を知りたい
- ストーリーの深掘りをしたい
中国語を耳にしながら、日本の字幕を読むと、言葉の解釈に広がりが持て、中国語の勉強になります。
中国の生の生活スタイルは、この映画の中に存分に含まれています。
歴史上、もっとも長く交流のある隣国について深く深く知ることができます。
この映画の一つ一つのシーンには、表面だけでは分からない深い意味が多く含まれています。
だから、深掘りすると新たな発見があるのでとても面白いと思います。
以上、「こんにちは、私のお母さん」を観て感じた思いを綴ってきました。
映画の上映期間は限られていますが、上映終了後も観る機会は幾らでもあると思います。
ありきたりでありながら、ありきたりでない映画。それが「こんにちは、私のお母さん」です。
機会を作り、誰しも一度は観て欲しい映画です。