庭先などに柿の木が植わっているのを目にすると、その多くが収穫されずに放置されているのが目につくことがあります。そんな姿を見ていると、あんなに実が成っているのに、ぜんぜん収穫している様子も、食べている様子もなく、どうみても放置されているようで、もったいないとも思えます。
たとえ食べている様子があっても、ほんの一部だけで、実のほとんどは放置されたままになっていて、どうしてなのか不思議に感じるものです。ここでは、そんな理由に迫ってみました。
高い木が多い
まず、放置される理由のひとつとして、柿の木はそれなりに高さがある点があげられます。柿の実は、枝の先の方に成りますので、木が高いと自然と木の上方部にある実が多くて収穫しにくくなります。リンゴや桃など多くの農産物では手が届く位の高さですが、柿の木の高さは、高いものだと数メートルにも及び、簡単には採ることができないのです。
もちろん、成長過程にある低い柿の木や、高くならない品種の木も多くあり、その場合、収穫するのはまだ容易ですが、さすがに数メートルに及ぶと、梯子を使うとか、特殊な道具を使わないと実を取ることはできません。
つまり、苦労してまで高いところにある実を取ろうとは思わない、というのが放置される一つの要因になっているのです。
食べ慣れる
次に、食べ慣れてしまう、言い方を変えれば食べ飽きてしまうというのが理由のひとつとしてあげられるでしょう。
柿の木を育てている人は、手がかからず、しかも自由に食べられるという利点から、自分の庭に植えるケースが多いと思いますが、毎年収穫時期に食べていれば、それに慣れてしまい、どうしても飽きてしまうものです。
柿は、味覚からしても特別おいしいと言えるものではありませんし、特に高品種というものでもありません。従って、それが「いつでも好きな時に食べられる」となると、却って食べなくなってしまうものでしょう。
植えたばかりの頃は、新鮮さもあり、そのメリットも強く感じてよく食べていたとしても、それが当たり前になってだんだん慣れてくると、そのようになってしまうものです。
実が多い
更に、実を結ぶ数がとても多くて、食べ切れないのもひとつの理由でしょう。
柿の木は、大きな木の場合、ひとつの木で百個、二百個、或いはそれ以上の実を付けるものもあります。実のなる季節は秋ですが、適切なタイミングで収穫しようとすると、収穫時期は短期間になるので、一日に何個も食べないと追いつかないようなケースも出てきます。
このように多すぎて持て余してしまうと、「もういいや」という気持ちも生じて来るでしょうし、それが続けば「無理して食べなくても 」と言った気持ちにもつながって行きます。
数が少ないと希少価値みたいなものを感じて無駄にしないものですが、やたらと数が多いと安易に無駄にしてしまうものです。
味が渋い
最後に、柿の実が渋いということが理由としてあげられます。これはある意味、最も大きな理由とも言える要因です。
一般に柿は渋柿と甘柿があると言われていますが、これらは品種そのもので2種類に分かれるというよりも、基本的には柿は全て渋いものなのです。つまり、柿は本来、みな渋みを持っていて、それが成熟するのに伴って渋みが取れるものなのです。
そして、成熟しても渋みが残って取れないものを渋柿といい、渋みが取れるものを甘柿と呼ぶのです。品種によって渋みが残る傾向は違いますが、成熟しても渋みは程度問題という一面もあり、甘柿でも若干の渋さが残るものもあります。
世の中には完全甘柿と呼ばれて甘柿にしかならないものもありますが、これは改良が加えられて作られたもので、完全渋柿(渋柿にしかならない)などと比較すると繁殖力が弱い傾向にあり、また、害虫などにも狙われやすいため、きちんと栽培するには手が掛かります。そういう意味では、庭先で簡単に育てる用途にはあまり向いていないとも言えます。
さて、渋みを避けるためには、十分成熟した時期を見計らって収穫する必要があるわけですが、成熟が不十分な柿は、直ぐには採られず、放置されているかのように見えるのです。もちろん、実際に放置されたままのものも多いのですが、実際に収穫するにしても、しっかり成熟しないと渋みが残り、成熟しすぎると腐り始めるので、収穫するタイミングが難しく、結果として収穫しきれないということを招きます。
完全渋柿と呼ばれる渋柿にしかならないものは、そのままでは食べることは困難ですが、不完全甘柿、不完全渋柿などのように、状況によって渋柿になってしまうものについても、そのままでは食べることが困難になります。従って、そのような場合は、干し柿にしたり、渋抜きをしたりしないと食べられるものではありませんが、これがけっこう手が掛かるため、そこまでして食べようとはしないのが現実です。
以上、庭先にある柿がなぜ収穫されずに放置されるのか、その理由を見てきましたが、そこにはそれなりの理由があるのですね。理由が分かれば、「なるほど!」と納得の思いです。