お盆休みに実家へ行った際、ちょうど終戦記念日の時期であったこともあり、父から戦時中の話を聞く機会がありました。
終戦当時に旧制の中学生であった父は、戦地には赴いてはいないものの、戦時下にあったできごとを鮮明に覚えており、今とは全く違う当時のことを話してくれました。
1945年に終戦を迎えて73年にもなる本年、当時のことを良く知っている人はほとんどいなくなった現在においては、父のように実際に戦争を経験している人の生の声は貴重だと感じて、記事を書くことにしました。
どんな時代か
まず、父が語ってくれたのは、当時の様子についてですが、何より今と比べて明らかに軍の力、影響力が強大であったとのことです。
今では想像が付かないことですが、政治次元でも軍がなにかにつけ介入し、事実上、仕切っていたそうです。
今の日本とでは、あまりにかけ離れていたのですね。
そしてとにかく物がなかった、特に食料が不足していたとのことです。
当時は、配給という制度があって、一定の食料が皆に配られたそうですが、配給されたものだけでは足りないのが現実で、人々はみな食料を得るためにできることは何でもしていたそうです。
食糧難は戦後もしばらく続き、特に親を失った孤児なども多く、そうした孤児は大量に餓死したそうです。
とにかく戦時中は、まさに総国民あげての臨戦態勢で、世の中は戦争一色であったとのことです。
父の経験
戦時中、小学生~中学生の年代であった父は、祖母(父の母)の指示によって、祖母の出身地である農村まで、片道9時間も汽車にのって、何回かお米を買いに行かされたそうです。
祖母のツテがあったからこそできたことで、周りの人と比べて、食料の面では恵まれていたそうです。
まだ子供であった父が行かされたのには理由があって、食料の闇取り引きが禁止されていた時代であったので、子供ならおトガメを受けないだろうとの考えがあったようです。
そして、中学の途中でありながら、学校ではなく、当時福島県にあった軍の予備的な施設に行き、そこで鉄の熔解作業を2年間していたそうです。
つまり、義務教育中でありながら、強制的にそこへ行かされて作業をさせられたわけですが、具体的にしていたことは、空襲で被害を受けた家から鉄金属を集め、それを工場の様な作業場所で熔解させていたとのことです。
要は、簡単な製鉄のようなことをやっていたわけですね。
当時は、武器を作る金属すら不足していたとのことですから、うなずけることです。
父の少し上の年代は徴兵されていて、同年代の人の中には戦地に赴かないまでも、徴兵されはじめた人も少し居たそうです。
父はちょうど徴兵されないギリギリの年代に相当したわけですが、そんな年代の人でも学業を差し置き、戦争のための任務に駆り出されていたということです。
当時は、赤紙(徴兵令の通知書)が来ると、「これで、お国の為に死ねる、おめでとう!」などと言う空気がありましたが、これは国に忠義を示す建前の言葉で、本音は誰しも戦地には行きたくないと思っていたのが実態でした。
父から聞いた話では、徴兵の年齢に達すると、特殊な事情が無い限りは徴兵を免れなかったので、何とか徴兵を逃れようとする人がいたとのことです。
例えば、徴兵に当たって身体に障害がある人は任に堪えないという理由でその任から外されるので、わざと自分の体が不健康になるようなことまでした人がいて、中には醤油を大量に飲んで病気になって徴兵を逃れようとした人もいたそうです。
また、学生でも技術を持つ理科系の人たちは、将来の日本の技術を支える人材と考えられていたので、文化系の人のみが徴収されて、理科系の人は徴兵されることはありませんでした。
従って、頭の良い人などは、徴兵を免れることだけを目的に、文科系から理科系に転ずる人が多くいたそうです。
戦争が終わったあとも、混乱した状態はしばらく続いていたようで、福島から東京の実家に戻った父は、旧制の中学に戻ったのち、大学の予備課程(今の高校に相当)に進んだそうですが、そこには戦地から戻った30代の人も多くいたとのことです。
貴重な体験談
さて、戦争を実体験した世代が高齢となって、生の話を聞けることがなくなりつつある今日にあって、今回、帰省した際にとても貴重な話を聞けたと思いました。
今後は、親から戦争の話を直接聞いたことがある世代すらも、稀になって行くことを思えば、ますます貴重だと感じます。
今回、父が語っていた中で、「今の政治家は戦争を知る人がいなくなった」と、嘆くような言い方をしていたのが印象的でした。
それは、戦争の良し悪しとは別次元に、真に国家・国民のことを思う政治家がいなくなったとの意味に感じられました。
そして、近年、自衛隊が海外派遣されるようになったことが、何か少し戦時中に似た雰囲気を感じるとも語っていて、海外派遣先で何が起きているかを隠そうとするような今の政府に対して、全く信用できないと漏らしていた姿がとても印象的でした。