お盆休みに実家へ戻った際、父に対して
「今もし50歳に戻ったとしたら、何をしたい?」
と聞いてみました。
それは、50歳の頃にしておくべきことを聞ければ、人生を豊かにするために何か役立つ情報が得られるかと期待していたからです。
しかし実際の回答は、私が期待したような内容とは全然違うものでした。
実際のやり取り
私がその質問をしたのは、お盆休みに帰省した時のある日の晩、夕食を終えてリビングでくつろいでいる時のことでした。
年老いた父は足腰も弱り、普段は買い物以外の外出は殆どしない生活を送っていました。
なので、50歳という身体の自由が利く年齢だとしたら、
「あれもしたい」
「これもしたい」
などと、色々な話が聞けるだろうと期待していました。
ところが最初に父の口から出てきた言葉は、50歳なら何をしたいかではなく、50歳の頃は何をしていたかという話でした。
具体的には
「その頃は、家庭農園に夢中になって毎週末のように農作物をいじっていた」
「植木に興味を持ちだしたのもその頃だ」
「確か、陶芸を始めたのもそれくらいの年代だった。今はもうやらなくなったが、その頃、道具も一式そろえた」
などなど、父が50歳の頃に夢中になっていた趣味の話をしだしたのでした。
「違う違う。そんなこと聞いていない」
と口まで出かかって、実際には
「ううん。その頃何やっていたかではなくて、今もし50歳に戻れるとしたら何をやりたいと思う?」
と聞き直しました。
すると父は
「そうだな。色々と好きなことをやって来た方だから、わりと満足する生活だったな」
と言い、今さら何かをやろうとは思わないような素振りでした。
そして次に出てきた言葉は、
「植木や陶芸もそうだが、私は多趣味だから子供のころから人がやらないようなことも色々やってきた。お茶を習ったり、ダンスを覚えたり、やりたいことは何でもやってきたよ」
と。
それからというもの、永遠と昔話が続いて行きました。
私は「そうなんだ」などと相槌を打ちながら会話を続けていましたが、心の中では「か、か、会話が成り立たない…」という思いでいっぱいでした。
感じたこと
今回の父とのやり取りを通して、「老いるとはこういうことなのか」と痛感させられました。
具体的に感じたことは以下の3つです。
まず、「年老いて行くと、会話のキャッチボールがしにくくなって行く」ということでした。
母との会話でもそうなのですが、こちらが意図することを理解して言葉を発するというよりも、自分の話したいことを話すという趣が強いのです。
次に、「発する言葉は、未来を見ている内容ではなく、過去を見ているような内容の傾向が強い」ということです。
端的に言えば、過去に自身が経験・体験した話題が話の中心になり、将来どうしよう、これからどうしよう、といった感じの話が極端に少ないのです。
これは、老化に伴って将来に対して大きな希望を持てないからなのでしょう。
そして3つ目は「会話の内容が、意欲的な発言を感じさせない」というものでした。
これは過去を見て未来を見ないということとも関連していると思いますが、どこか生活に充実感が欠けていることから言葉ににじみ出てくるのだと思えてなりませんでした。
こんな父親とのやり取りを通して、年老いて行く親の姿を強く感じ、どこかとても悲しい気持ちが湧いてきました。
また同時に、自分はたとえ年老いたとしても、いつまでも前向きな姿でいたいと強く心したものでした。