中国語を学ぶようになってから、以前よりも漢字にとても興味が湧くようになりましたが、日ごろ使っている「ひらがな」の由来が漢字であることを思い出し、それぞれの「ひらがな」がどの漢字に由来しているのかを知りたくなりました。
小学校時代の遠い記憶にはあったのですが、ほとんど思い出せず、却って興味津々になったのです。
改めて調べたところ、ネット上にはコピーをしただけと思われるサイトも多く、ろくに調べもせずに投稿したような粗雑な内容のものだけでなく、説明が不十分なものも多く見られました。
ここでは、由来の漢字を改めてきちんと整理してまとめ、対応する漢字からどのように変化したのか、その成り立ちについて、書体からの筆記の変化がハッキリ分かるようにしました。
また、ひらがなの発音と漢字の音との関係が良く分かるように解説も加えました。
ひらがなの由来
さて、ひらがなの由来ですが、日本には最初、文字というものがなく、話し言葉だけを用いていました。
そこに、中国大陸(漢の時代)から漢字が伝わってきて、漢字の音をかりて日本語の音を表記する万葉仮名というものが用いられるようになりました。
その後、草仮名(そうがな)と言われる、草書体に書きくずした万葉仮名が使われるようになり、その草仮名がさらに簡略化されてひらがなになりました。
ひらがなは平安時代の初期から中期にかけて発達したと言われています。
以上をまとめると「万葉仮名」→「草仮名」→「ひらがな」です。
書体の流れで説明すると、楷書体を崩したものが行書体ですが、この行書体をさらに崩して点や画を省略し、曲線を多くして書き表したものが草書体です。
この草書体を更に簡略化して生まれた文字が「ひらがな」です。
これをまとめると「楷書体」→「行書体」→「草書体」→「ひらがな」です。
由来の漢字
では、「あいうえお」ひとつひとつの元となった漢字を見てみましょう。
全体をまとめると下記の表のようになります。個々のひらがなをクリックすると詳細の説明へとびます。
あ←安 | い←以 | う←宇 | え←衣 | お←於 |
か←加 | き←幾 | く←久 | け←計 | こ←己 |
さ←左 | し←之 | す←寸 | せ←世 | そ←曾 |
た←太 | ち←知 | つ←州 | て←天 | と←止 |
な←奈 | に←仁 | ぬ←奴 | ね←祢 | の←乃 |
は←波 | ひ←比 | ふ←不 | ヘ←部 | ほ←保 |
ま←末 | み←美 | む←武 | め←女 | も←毛 |
や←也 | ゆ←由 | よ←与 | ||
ら←良 | り←利 | る←留 | れ←礼 | ろ←呂 |
わ←和 | ゐ←爲 | ゑ←惠 | を←遠 | |
ん←无 |
一文字ずつの詳細解説
以上のように、ひらがなの由来の漢字を示しましたが、分かりにくいひらがなもあるかと思います。
これらの漢字は、基本的に草体(草書体)がもとになっていますが、中には特殊なものもあります。
いずれにしても、ひらがなが漢字から生まれたことを理解するには、元の漢字の筆順を追っていくと理解しやすくなります。
以下、なぜその漢字からそのひらがなが生まれたのか、その成り立ちの詳細が分かるように、筆順を中心にひらがな一文字ずつ説明します。
あ行
ひらがなの”あ”は、漢字の”安”からできました。
”安”の草書体を簡略化してひらがなの”あ”となりましたが、現代の”安”をそのまま書き崩してできたわけではありません。
”安”は、ウ冠「宀」ですが、当時は草書体だけではなく行書体においてもワ冠「冖」を書いて、その下に女を書いていました。
女の字を「く」「ノ」「一」の順に書く時に、「く」の上部がワ冠「冖」の上に突き出ていました。(ちなみに、「ノ」は「一」の上に突き出ていた)
そして、この突き出る部分が、ウ冠「宀」の初画の「丶」(点)とつながる字体になっていて、この筆順で書き崩したのが、ひらがなの”あ”です。
ひらがなの中には、今日の漢字の筆順とは違う書き方で生まれたものがありますが、ひらがなの”あ”もその一つです。
”安”は、安全(あんぜん)、安泰(あんたい)など、「あん」と二音に読みますが、このうち「あ」の一音だけが、ひらがなの”あ”の音になりました。
ひらがなの”い”は、漢字の”以”から生まれました。
”以”の草書体を簡素化した字が”い”に当たります。
”以”の草書体は、以という漢字を筆書きして略した字にするイメージで考えると分かりやすいです。
草書体では、以の真ん中の点が左側の一画目の縦棒とつながるような筆記をしていました(図中の左の筆記)が、その筆記が縦方向に筆記されるようになり、「い」の左の縦棒になりました。
一方、以の右側(人のような字体)は楷書では二画ですが、草書では一筆(一画)で書き、これが簡素化されて”い”の右側の縦棒になりました。
”い”というひらがなが使われ始めた当初は、”い”の二画目(右側の縦棒)の方が長く書かれていましたが、その後、現在の”い”のように、一画目(左側の縦棒)の方が長めに書かれるようになりました。
”以”は、以上(いじょう)など、「い」と読みますが、漢字の音「い」がそのまま、ひらがなの”い”の音になっています。
ひらがなの”う”は、漢字の”宇”から生まれました。
”宇”という漢字を筆でそのままくずして書いてできた字がひらがなの”う”です。
”宇”はウ冠(かんむり)「宀」の下に「干」と言う字を書きますが、ウ冠の最後の画において左下に筆をはねた時に、そのまま干につなげるくずし字が”う”の元の字にあたります。
”宇”の初画(上部の点)の部分が、”う”の初画の部分に相当します。
”う”は、宇部(うべ)など、「う」と読みますが、漢字の音「う」がそのまま、ひらがなの”う”の音になっています。
なお、カタカナの”ウ”も漢字の”宇”から生まれましたが、この場合は”宇”のウ冠「宀」から”ウ”になりました。
ひらがなの”え”は、漢字の”衣”から生まれました。
”衣”の草書体をそのまま筆でくずして書いてできた字がひらがなの”え”です。
これは、字の形が比較的似ていることから分かりやすいと思います。
しかし、分かりにくいのは”衣”の読みの方で、普通に読めば衣類(いるい)、衣服(いふく)、衣装(いしょう)など、「い」と読みますから、「え」では無くて、何でだろうと思うかも知れません。
これは、衣には漢音の「い」と呉音の「え」の2つの字音があり、呉音の「え」がひらがな「え」の読みになっているからです。
字音とは、伝来時期や方言の差によって同一漢字で色々な音がありその読み方を言います。
字音には主に漢音、呉音、唐音などがあります。
呉音は南方系の読みと言われ、仏教関係の言葉によく見られ、白衣(びゃくえ)など”え”と読むのがその一例です。
ひらがなの”お”は漢字の”於”からできました。
”於”は、かたへんである「方」から構成されていますが、この「方」を書くときに「丶」(てん)を書いた後に「万」を書くのではなく、本来二画目に当たる横画「一」を初画として書き、続いて本来の1画目と3画目をつなげて書くような書き方をして、「方」を3画で筆記するのが当時は一般的でした。
その結果、行書でも草書でも「方」は「オ」のような字体をしていましたが、「オ」を書く筆順に続けて”於”の旁(つくり)の部位を書きましたので、”お”のような字体になりました。
”お”の字体に「丶」(点)があるのは、”於”の右側の旁の部位を書くときに、下方の2つの点を先に書いてから上方の「∧」を書く筆順をしたことによります。
”於”は、「~に於(お)いて」と言うように、「お」と読みますが、これは訓読みでひらがなの”お”の音のもとではありません。
日常使う言葉としてはありませんが、”於”には、音読みとして「お」という読み方もあり、この音読みがひらがなの”お”の音になっています。
なお、カタカナの”オ”についても、漢字の”於”から生まれましたが、この場合は”於”のかたへん(ほうへん、とも言う)からできました。
か行
ひらがなの”か”は漢字の”加”の草書体から生まれました。
漢字の”加”は、左辺の「力」(二画)と右辺の「口」(三画)で構成されていますが、ひらがなの”か”(三画)の最初の2画は「力」が変化し、最後の画は「ロ」が点「丶」に簡略化されてできました。
”加”は読みとしても加算(かさん)など、「か」の音を持っていますので、そのままひらがなの「か」の音になっています。
なお、カタカナの”カ”についても、漢字の”加”から生まれましたが、この場合は”加”のへんからできました。
ひらがなの”き”は漢字の”幾”からできました。
漢字の”幾”は現代ではこのような書き方をしていますが、古来は幾の右下の「ノ」の部分と右側の「幺」の下部にある「丶」(てん)を省いて書くのが一般的でした。
そして、この省いた字体を草体で書いて崩した書き方をした結果、ひらがなの”き”となりました。
つまり、幾の中の2つの「幺」を書き、横棒「一」を書き、縦の「\」の形状の部位を書き、最後に左下の「人」の部位の筆順を崩して書くことで、ひらがな”き”になりました。
こうした経緯から、当初の”き”の中には、縦棒「\」の上部が横棒「ニ」の上に突き出ない字体も使われていました。
幾は、幾何(きか)などのように「き」と発音しますが、これがそのままひらがなの”き”の音になっています。
なお、カタカナの”キ”についてもひらがなと同様に、漢字の”幾”から生まれました。ひらがなの”き”の最終画が省略されてカタカナの”キ”になったと言われています。
ひらがなの””は漢字の”久”からできました。
久は三画で「ノ」+「フ」+「\」の順に書きますが、字体を崩して書く過程で「ノ」と「フ」を続けて書いた後に「\」を書くようになった結果、「人」という漢字の一画目の上部が波を打って少し長めになるような「人」に近い形状の字体になりました。
その後、「人」に近い形状の一画目と二画目を続けて筆記するようになって、ひらがなの「く」となりました。
「久」は字音としては「きゅう」と読むのが一般的ですが、呉音(ひらがな”え”の項参照)の読み方としては久遠(くおん・仏教用語)などのように「く」と読みます。
この「く」の読み方がそのままひらがなの”く”の音になりました。この読み方は、久留米(くるめ)や久喜(くき)など固有名詞でも使われています。
なお、カタカナの”ク”についてもひらがなと同様に、漢字の”久”から生まれましたが、この場合は”久”の最初の2画からできたと言われています。
ひらがなの”け”は漢字の”計”からできました。
計は「言」(ごんべん)と「十」の部位から構成されていますが、このうち「言」の筆が縦棒のように変化して”け”になったと考えると比較的理解しやすいと思います。
中国語の「計」は、現在では簡略された文字(簡体字)となって「计」となっていますが、これはごんべんの筆記を簡略化することで生まれています。
この「计」を更に崩すとひらがなの”け”のような字体になることをイメージすると、「計」を簡略化して「け」が生まれた流れが分かりやすいでしょう。
「計」は合計(ごうけい)、計算(けいさん)などのように「けい」と読みますが、このうち「け」の一音だけを用いてかたかなの”け”の読み方になっています。
但し、日本語としては馴染みがありませんが、「計」は呉音としては「け」とも読み、それに由来するという説もあるようです。
ひらがなの”こ”は漢字の”己”からできました。
”己”は楷書体では三画ですが、草書体では一筆書きのように全てを続けて筆記する一画になります。(図の左側)
最初の横画を書いた後、筆を左方向に折り返す筆記の時に”筆が離れてこ”の上部になり、続けて筆記する「乚」の部位が”こ”の下部になりました。
「己」は自己(じこ)のように「こ」と読みますから、これがそのままひらがなの”こ”の発音になっています。
なお、カタカナの”コ”もひらがなと同じで漢字の”己”からできましたが、この場合は”己”の最初の2画からできました。
さ行
ひらがなの”さ”は漢字の”左”からできました。
”左”は五画で、「一」+「ノ」+「工」の順番で書きますが、草書体では最初の二画「ナ」に「エ」を崩した「乙」のような形状になります。
この時、二画目の「ノ」と「乙」を続けて筆記しようとして、「ノ」が右方向に払う「\」のような形状になり、そこから更に変化したのが、ひらがなの”さ”です。
”左”は左右(さゆう)、左遷(させん)などのよう「さ」と読みますから、これがそのままひらがな”さ”の発音になっています。
ひらがなの”し”は漢字の”之”からできました。
”之”は三画ですが、初画の「丶」(てん)以降の2画と3画を続けて書き、簡略化すると波を打った縦棒のようになりますが、これが変化してひらがなの”し”になりました。
ひらがなの”し”の中には、”し”の上部に点を打った字体で筆記する場合がありますが、これは”之”の初画である「丶」(てん)の名残です。
”之”は、一般に「これ」、「この」、「の」などと読み、「し」という読み方は固有名詞で使うくらいしか馴染みが有りませんが、字音としては「し」の読みをします。
この読みがそのまま、ひらがなの音「し」となりました。
なお、カタカナの”シ”もひらがなと同じで漢字の”之”からできましたが、これは”し”の上部に「丶」(てん)を打つ書き方において、最後の画を右上に跳ね上げるように筆記するようになって生まれました。
ひらがなの”す”は漢字の”寸”からできました。
”寸”は「一」+「亅」+「丶」の三画ですが、二画目の縦棒「亅」と三画目の点「丶」とを続けて筆記する字体から”す”となりました。
”寸”は、寸志(すんし)、寸法(すんぽう)、寸分(すんぶん)などのように「すん」と読みますが、この「すん」の一文字目の「す」の音が、ひらがな”す”の音になっています。
ひらがなの”せ”は漢字の”世”からできました。
”世”は五画で、横画「一」(一画目)+真ん中の縦画(二画目)+右の縦画(三画目)+2画目と3画目の下方を結ぶ短い横画(四画目)+「乚」(五画目)の順番で書きますが、これはあくまで楷書体です。
世は、行書体でも草書体でも四画で、どちらも楷書体の四画を略して3画目を左方向に払う筆記になります。
二画と三画の縦棒を続けて書く流れから自然と縦画がひとつ簡略化されて、”せ”のような字体になりました。
世の場合、草書体も行書体も筆記が似ていることから、草書体から変化したという説がある一方で、行書体を書き崩してできたと言う説も有力視されています。
しかし、これには異説があり、漢字が中国から伝来して来た時点で既に「せ」のような字体であったとする見方もあります。
これは、昔の中国では皇帝の名前をそのまま書いてはいけない慣習がありましたので、唐(7世紀)の第2代皇帝の「李世民」(りせいみん)の世の字を、画数を減らした「せ」のような書き方にしていた史実があるからです。
そして、ひらがなが発達した平安初期以前の奈良時代の書物の中にも既に「せ」という字体が随所に見られることから、この「せ」の書き方がそのままひらがなの”せ”になったのではないかと考えられています。
”世”は、世界(せかい)、世帯(せたい)などのように「せ」と読みますが、この読み方がそのままひらがな”せ”の音になっています。
なお、カタカナの”セ”もひらがなと同様に、漢字の”世”から生まれましたが、これは、ひらがなの”せ”の一画目と二画目を続けて筆記した字体が変化してカタカナの”セ”になったと言われています。また、ひらがなの”せ”から変化したのではなく、”世”の行書体から変化したという説もあります。
ひらがなの”そ”は漢字の”曾”からできました。
”曽”は簡易慣用字体とよばれ”曾”の異体字ですから、”曽”からできたとも言えます。
また、”曾”は”曽”の旧字でもありますから、もとの字と言う意味では”曾”からできたという方が妥当に思えます。
しかし、実際の”そ”の成り立ちは、「曽」の草書体から変化しましたから、曾と曽のどちらが字源と言っても問題はないでしょう。
ところで一見すると、「何で”曽”が”そ”になるの?」と言う感じもしますが、筆順を見て行くと理解しやすいです。
”曽”は11画で最初の2画に相当する2つの点と、中間にある「田」(5画)と、下方にある「日」(4画)の部位で構成されています。
最初の2画の点の後に「田」と「日」を続けて書くと、2つの点の下に「呂」に似た形状の字体があるようになります。
そして、2つの点と「呂」のような字体を続けて筆記しながら更に簡略した書き方にすると、ひらがなの”そ”になります。
ひらがなの”そ”は、「そ」のように一筆書きのように書くことがありますが、最初に点をうって「ソ」のように書いてから続けて「て」のように書いて、一筆書きのようにならない書き方があります。
この書き方の場合、”曽”の字の最初の2画の名残が残っていると言えます。
”曽”は、木曽(きそ)のように「そ」と読みますが、この読み方がそのままひらがな”そ”の音になっています。
なお、カタカナの”ソ”もひらがなと同様に、漢字の”曽”から生まれましたが、この場合は曽の最初の2画からできました。
た行
ひらがなの”た”は漢字の”太”からできました。
”太”は4画で”た”も4画ですが、それぞれ”太”の画が”た”の画に対応しています。
つまり、”太”の「一」(初画の横棒)は”た”の横棒(初画)に、”太”の「ノ」(2画)は”た”の縦棒(2画)に、”太”の「\」のような形の部位(3画)は”た”の中の「こ」の上部(3画)に、”太”の「丶」(4画の点)は”た”の中の「こ」の下部(4画)に相当します。
これをイメージしながら、”太”を崩して書くと”た”になるのがよく分かると思います。
”太”は、太陽(たいよう)、太宰府(だざいふ)、太刀(たち)など、「たい」と「だ」と「た」の3つの音があります。
このうちの「た」の音が、そのままひらがな”た”の音になったようです。
ひらがなの”ち”は漢字の”知”からできました。
”知”を書くときは、「矢」と「口」を書きますが、草書体を崩して書く過程で、「矢」は”ち”の中の「十」の形状の部位に、「口」は”ち”の中の「つ」の形状の部位に変化して行き、”ち”の文字になりました。
”知”は、知識(ちしき)、知恵(ちえ)などのように「ち」の音がありますが、これがそのままひらがなの”ち”の発音になっています。
ひらがなの”つ”は漢字の”州”或いは”川”からできました。
上記の表中には一応”州”が由来する漢字であると書きましたが、”川”が由来だとする説も有力です。
ここでは両説を中心に説明します。
”州”を草体で書くと、上記のように丸を2つ描くように筆を走らせた後、”州”の終画の部分を長く伸ばします。
この書き方をはやく崩して書くことで自然と”つ”のようになりました。漢字の形状から考えるとイメージしにくいですが、筆の筆順を考えると”州”が”つ”になることがイメージしやすいと思います。
字体の変化の仕方としては”川”でも同じです。
”川”を一筆で続けて書くと、上記のように3段に波を打ったような略体といわれる曲線になりますが、この時”川”の三画目の縦線を左下へ払うような形で筆を流すと、”つ”に近い形状になります。
この形状から波を打った字体がなだらかになって”つ”になりました。
字形の変化はこのように”州”でも”川”でも比較的分かりやすいのですが、問題は「つ」という音です。
”川”は、河川(かせん)のように「せん」と読みますが、「つ」という音は持っていないのです。
実は、”川”の古音(こおん)には「つん」という音があり、この音の一音目の「つ」がひらがなの”つ”の音になりました。
古音(こおん)とは、呉音が伝わる前から日本に伝来していた漢字の音のことで、古い万葉仮名などで使われていました。
昔の中国(周、漢や魏など)の時代の音が残ったものと言われています。
中国語では”川”をチュアン(ピンイン表記:chuan)と発音しますが、この古音「つん」の名残が残っていると言えます。
”州”についても同様で、字音としてはシュウという音しかありません。しかし、”州”の古音に、比較的”つ”に近い音があることが分かっています。
このように”州”がひらがな”つ”の由来の漢字だとする説の場合も、”つ”の音は”州”の古音からきていると言われています。
また、ひらがな「つ」の由来には諸説が多く、”州”や”川”の他にも”津”や”鬪”から作られたともいわれています。
諸説が多い理由は、州も川も漢字として”つ”の音を持たず、他のひらがなの由来と比較しても珍しいケースだからです。
そのため、別の説では”つ”の音を持つ、”津”や”鬪”に由来するのではと考えられているのです。
”津”は、近年でもひらがなの「つ」の代わりとして使われる漢字ですし、当然「つ」の音を持っています。
筆記を考えるとイメージしにくい面がありますが、草書体には「つ」を連想させる点があります。
津を草書体で筆記すると、旁(つくり)である聿の上部は「つ」のような筆記があります。
さんずいから続けて聿に筆をつなげて、そこで筆を留め、その筆記を簡略化すれば「つ」に近い字体になることを考えると、この説も少し理解しやすくなります。
また、もう一つの説である鬪ですが、これは闘の旧字に相当し、鬪の新字体として闘が生まれました。
闘は、もんがまえ(門)で、鬪は、たたかいがまえ(鬥・とうがまえ、とも言う)ですが、門も鬥も同じであるとして、鬥の代わりに門という筆記がよく用いられてきました。
闘(鬪)を草書体で筆記すると、下図のように上部が「つ」のような筆記になりますが、これが鬪が「つ」の由来であるとする説の根拠のようです。
鬪(闘)は「とう」という読み方に馴染みがありますが、呉音として「つ」の読み方があり、この説では、この呉音としての「つ」の読みが、ひらがなの「つ」の音のもとと考えられています。
なお、カタカナの”ツ”もひらがなと同様に、漢字の”州”又は”川”から生まれましたが、これについても諸説があります。
ひらがなの”て”は漢字の”天”からできました。
”天”は「ニ」を書いて「人」を書きますが、これを筆で続けて書くと、「ニ」の下に「人」があるような字体になります。
この時、「ニ」の部位が「一」のような形状に変化して、続く「人」の部位が”て”のカーブを描く曲線のように変化して”て”になりました。
「天」は天気(てんき)、天井(てんじょう)などのように「てん」と読みますが、最初の「て」の一音だけを用いてかたかなの”て”の読み方になっています。
なお、カタカナの”テ”もひらがなと同様に、漢字の”天”から生まれましたが、この場合は天の最初の3画(終画の略)からできました。
ひらがなの”と”は漢字の”止”からできました。
”止”は4画で、第1画目である「|」(縦棒)から書き始め、続いて第2画目である「-」の後、3,4画目を書きます。
3,4画目を続けて一筆で書くと、「L」のような形状になりますが、1,2画に続けてこの「L」を一筆で書こうとすると、ちょうど”と”を一筆書にした形状に近くなるのが分かると思います。
このような経緯で”止”を崩して書いた字が自然に変化して”と”になりました。
”止”は止(と)める、波止場(はとば)のように訓読みで「と」と発音しますが、実はこの「と」がひらがなの”と”の音になった訳ではありません。
”止”は呉音や漢音でも「し」の音しかないからです。
実は、ひらがなの”と”の発音は、”止”の古音(こおん)に由来しています。
古音とは、ひらがな”つ”のところでも説明しましたが、古い音のことです。
なお、カタカナの”ト”もひらがなと同様に、漢字の”止”から生まれましたが、この場合は”止”の最初の2画からできました。
な行
ひらがなの”な”は漢字の”奈”からできました。
”奈”は8画ですが、最初の2画「ナ」の部位が変化して”な”の最初の2画になり、”奈”の後半の6画(「\」のような形状の部位と「示」の部位」)が変化して”な”の中の「よ」のような形状の部位になりました。
”奈”は、奈良(なら)のように「な」の音がありますが、これがそのままひらがなの”な”の発音になっています。
なお、カタカナの”ナ”もひらがなと同様に、漢字の”奈”から生まれましたが、この場合は”奈”の最初の2画からできました。
ひらがなの”に”は漢字の”仁”からできました。
”仁”の「亻」(にんべん)を続けて書くと「|」のようになりますから、”仁”が”に”に変化したことは分かりやすいと思います。
”仁”は、仁王(におう)のように「に」の音がありますが、これがそのままひらがなの”に”の発音になっています。
なお、カタカナの”ニ”は漢数字の”二”からできたと言われていますが、ひらがなと同様に、漢字の”仁”から生まれた(”仁”の旁から)という説もあります。
ひらがなの”ぬ”は漢字の”奴”からできました。
”奴”を筆順に従って、一筆書きのように続けて書くと、”ぬ”に近い形状になります。その形状から変化して”ぬ”なりました。
当時の”奴”は、「く」+「ノ」+「一」と書く「女」の部位において、「ノ」の上部を「一」の上に突き出して書くのが普通で、この書き方から変化したことで”め”のような字体になりました。
”奴”は、奴隷(どれい)のように「ど」と読みますが、これは漢音です。”奴”には呉音として、奴婢(ぬひ)、奴僕(ぬぼく)のように「ぬ」という読みかたがあり、この音がひらがなの”ぬ”の音になっています。
なお、カタカナの”ヌ”もひらがなと同様に、漢字の”奴から生まれましたが、この場合は”奴”の旁(つくり)からできました。
ひらがなの”ね”は漢字の”祢”からできました。
”祢”は9画で、しめすへんの「ネ」と旁(つくり)の部分「尓」から構成されていますが、「ネ」を略して書くと、手偏(てへん)の横棒が無いような形状になり、右側の「尓」が略された形状とつながって、ひらがなの”ね”になりました。
しかし、これには少し不自然なところがあります。実は、奈良時代には、”祢”のしめすへん「ネ」の代わりに、のぎへんである「禾」がよく使われていて、”祢”ではなく”称”という字が多く残っています。
従って実際は、当時、”祢”と同じ字として書かれていた”称”という字体から変化したと考えるのが自然だと言われています。
祢は禰の異体字で、禰の略体が祢に当たります。
禰宜(ねぎ)のように祢も禰も「ね」という呉音を持ちますが、これがひらがなの”ね”の音になっています。
なお、カタカナの”ネ”もひらがなと同様に、漢字の”祢から生まれましたが、この場合は”祢”のへん(しめすへん)からできました。
ひらがなの”の”は漢字の”乃”からできました。
漢字の”乃”の形状だけ見ると、そこからひらがなの”の”が生まれたことはイメージしにくいですが、”乃”の初画はあくまで「ノ」の部分ですから、そこから二画目につながるように筆記すると、”の”のような形状になることが分かると思います。
つまり、”乃”を自然に一筆で筆記することで”の”のような字体へと変化して行ったのです。
”乃”は、乃木坂(のぎざか)のように「の」と読みますが、この音がそのままひらがなの”の”の音になっています。
なお、カタカナの”ノ”もひらがなと同様に、漢字の”乃から生まれましたが、この場合は”乃”の初画からできました。
は行
ひらがなの”は”は漢字の”波”からできました。
漢字の”波”は、「氵」(さんずい)と「皮」で構成されますが、崩して簡略化して書くことで、さんずい「氵」が”は”の左側の「|」(縦棒)の部位に、「皮」が”は”の右側の部位になり、ひらがなの”は”となりました。
”波”は、波及(はきゅう)、波止場(はとば)、波浪(はろう)などのように「は」と読みますが、これがそのままひらがなの”は”の音になりました。
ひらがなの”ひ”は漢字の”比”からできました。
”比”をそのままの筆順で崩し書きしても”ひ”のような字体にはなりません。
”比”の右側の「ヒ」の部位は、通常は「ノ」のように、右から左に向かって書きますが、昔は「一」を書くように左から右に向かって書いていました。
つまり、”比”の左辺を書いた後に続けて「ヒ」の横棒を左から右につなげて書くような筆順から”ひ”に変化して行きました。
”比”は、比率(ひりつ)、比較(ひかく)などのように「ひ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ひ”の音になりました。
なお、カタカナの”ヒ”もひらがなと同様に、漢字の”比から生まれましたが、この場合は”比”の右側(最後の2画)からできました。
ひらがなの”ふ”は漢字の”不”からできました。
”不”の字体と”ふ”の字体は、形状が似ているため”不”を続けて書くことで”ふ”ができたことは分かりやすいと思います。
但し、”不”は4画で、その書き順は「一」「ノ」「|」「丶」の順番になりますが、草書体で書く場合は2画目と3画目の書き順が入替り、「一」「|」「ノ」「丶」の順番で書かれていて、その書き順で続けて筆記することで”ふ”となりました。
”不”は、不可(ふか)、不能(ふのう)などのように「ふ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ふ”の音になりました。
なお、カタカナの”フ”もひらがなと同様に、漢字の”不”から生まれましたが、この場合は”不”の最初の2画(本来の筆順)からできました。
ひらがなの”へ”は漢字の”部”からできました。
”部”の形状からすると、どうして”へ”になるのか疑問が生じると思いますが、実はひらがなの”へ”は、漢字”部”の中のおおざと「阝」の部分から出来ています。
つまり、おおざと「阝」の草体を書き崩してできたのですが、これを理解するには当時の”部”の書かれ方を知る必要があります。
当時は、物部(もののべ)など人名に多く”部”の字が使われていましたが、”部”を書くのが面倒だということで、その手間を省いておおざと「阝」のみが書かれていました。
これは、省文(せいぶん)や省字(せいじ)と呼ばれ、漢字の字画を省略する書き方で、他の漢字などでもよく使われてきた書き方です。
”部”は、部屋(へや)のように「へ」と読みますが、これがそのままひらがなの”へ”の音になりました。
なお、カタカナの”へ”もひらがなと同様に、漢字の”部”から生まれましたが、ひらがなと同じく”部”のおおざとからできました。
ひらがなの”ほ”は漢字の”保”からできました。
”保”を筆順通りに崩してかくことで”ほ”になりました。
つまり、”保”は、「亻」「口」「木」から構成されますが、「亻」が、”ほ”の「|」(たてぼう)になり、「口」が”ほ”の上の横棒になり、「木」が”ほ”の残りの部位になりました。
”保”は、保険(ほけん)、保育(ほいく)のように「ほ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ほ”の音になりました。
なお、カタカナの”ホ”もひらがなと同様に、漢字の”保”から生まれましたが、この場合は”保”の最後の4画からできました。
ま行
ひらがなの”ま”は漢字の”末”からできました。
”末”は5画ですが、三画目の「|」に続いて4画目、5画目を続けて筆記すると、「ま」の形状の字体になります。
これは、”保”から”ほ”が生まれた時の字の崩し方と同様です。
「末」は期末(きまつ)、末尾(まつび)などのように「まつ」と読みますが、「ま」の一音だけを用いてかたかなの”ま”の読み方になっています。
なお、カタカナの”マ”ができた由来のひとつに、ひらがなと同様の漢字”末”から生まれたという説がありますが、この場合は”末”の最初の2画から変化したと言われています。
ひらがなの”み”は漢字の”美”からできました。
”美”という漢字は、「羊」と「大」から生まれましたが、8世紀頃の日本ではこの「大」の代わりに「火」と書く字体がよく使われていました。
そして、この「火」を使う字体「羙」が崩れてひらがなの”み”になりましたが、「火」の部分2つの点を先に書かずに、「人」の部分から先に書く筆順が簡略されて”み”になりました。
”み”の終画である「ノ」の部分があるのは、「大」の部位を持つ”美”からではなく、「火」の部位を持つ羙から生まれたことのあらわれです。
”美”は、美化(びか)や美術(美術)などのように漢音の「び」と読むことが多いのですが、呉音には「み」の読みがあります。
渥美(あつみ)など人名ではよく「み」と読まれていますが、この音がひらがなの”み”の読み方になっています。
ひらがなの”む”は漢字の”武”からできました。
”武”の書き順は本来、上部の横棒「ニ」を先に書いた後、「止」を書き、「\」の形状の部位を書いて最後に右上の「丶」(てん)を打ちます。
しかし、もととなった草書体の場合は、上記のように大きく異なる筆記で、上部の横棒「ニ」を先に書いた後、先に「\」の形状の部位を書いてから「止」を書き、最後に右上の「丶」(てん)を打つ順を崩した、「武」の字体からは想像しにくい字体になっています。
とても分かりにくいですが、楷書体とは全く異なる筆順だからこそ、字体も大きく異なっています。
そして、この本来の”武”の字体からは大きく異なる草書体を、上図のように簡略化して書くことで”む”になりました。
草書体では、”武”の字体をイメージしにくいですが、実際にそのように筆記されていたのです。
”武”は武蔵(むさし)のように、「む」と読みますが、これがそのままひらがなの”む”の音になっています。
ひらがなの”め”は漢字の”女”からできました。
”女”の筆順は、「く」、「ノ」、「一」ですが、この筆順を続けて書くことで”め”となります。
現在の”女”は、2画目の「ノ」が3画目の「一」の上に出ることはありませんが、昔は2画目の「ノ」を3画目の「一」の上に突き出して書くのが通常でした。
”め”の2画目が上に突き出ているのもそのためです。
”女”は、乙女(おとめ)のように「め」と読みますが、これがそのままひらがなの”め”の音になっています。
なお、カタカナの”メ”もひらがなと同様に、漢字の”女”から生まれましたが、カタカナの場合は、”女”の最初の2画から生まれました。
ひらがなの”も”は漢字の”毛”からできました。
どちらも字体が似ているので分かりやすいですが、”毛”の通常の書き順(横線三本を先に書く)ではなく、あくまで(横、縦、横、横)の書き順を崩して書いた字から”も”が生まれました。
”毛”は、毛筆(もうひつ)や羽毛(うもう)など「もう」と読みますが、「も」の一音だけを用いてかたかなの”も”の読み方になっています。
なお、カタカナの”モ”もひらがなと同様に、漢字の”毛”から生まれました。
や行
ひらがなの”や”は漢字の”也”からできました。
”也”は三画ですが、その3画目を曲げずに下に延ばすして書くことでひらがなの”や”になりました。形状がとても似ていて分かりやすいですね。
”也”は、古文などで反語や疑問を表す「・・・や」などに漢字を用いる他はあまり「や」の読みとしては使われないようですが、達也(たつや)、竜也(りゅうや)、昌也(まさや)など、人名などで「や」の読みとして使われます。
この「や」の音が、ひらがなの「や」の読みになっています。
なお、カタカナの”ヤ”もひらがなと同様に、漢字の”也”から生まれました。
ひらがなの”ゆ”は漢字の”由”からできました。
”由”は、「冂」を書いた後に、縦棒「|」をかいてから残りの横線二本を書く筆順ですが、これを崩して書くことで”ゆ”となります。
しかし、先に「日」と書いてから最後に縦棒「|」を書く順で筆記して簡略化しても”ゆ”の字体になることから、筆順としてはこちらの方が自然だと言う説もあります。
”由”は、由来(ゆらい)のように「ゆ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ゆ”の音になっています。
なお、カタカナの”ユ”もひらがなと同様に、漢字の”由”から生まれましたが、この場合は、”由”の最後の二画から変化してできたと言われています。
ひらがなの”よ”は漢字の”与”からできました。
”与”をつなげて筆記して書き崩すことで”よ”となりましたが、当時の”与”の字は、”与”の横棒が右に突き出ない字体が普通でした。
上記の写真では理解しやすいように横棒を突き出した筆記をしています。
ちなみに、”与”の横棒を”突き出して書くようになったのは室町時代からと言われています。
”与”は、漢字の「與」の略体ですから、”よ”は”與”に由来するという言い方をしても、決して間違いとは言えないでしょう。
”与”は、供与(きょうよ)や与党(よとう)などのように「よ」と読みますが、これがそのままひらがなの”よ”の音になっています。
なお、カタカナの”ヨ”もひらがなと同様に、漢字の”与”から生まれましたが、”与”の旧字である”與”の一部から生まれたのではなく、あくまで”與”の略体である”与”から変化したものです。
ら行
ひらがなの”ら”は漢字の”良”からできました。
”良”の初画が”ら”の最初の「丶」(点)に該当し、全体の形状も似ているので比較的分かりやすいと思います。
草書体では、”良”は上記の写真(左)のような筆記をしていたのですが、この”良”の筆順を基本にして、そのままに自然に字体を崩して行くと「ら」の字体になって行きます。
”良”は、野良(のら)や奈良(なら)など「ら」と読みますから、これがひらがなの”ら”の音のなったように見えます。
しかし、”良”には本来、漢音の「りょう」と呉音の「ろう」という読みしかありません。
従って、どうして「ら」の音になったのかについてはハッキリしない面があり、諸説があります。
ひとつの説として、上記の「りょう」や「ろう」は古い仮名遣いではそれぞれ「りゃう」「らう」と読みますが、このうち「らう」の一音目の「ら」がひらかなの”ら”の音のもとになったとするものがあります。
また別な説として、朝鮮から伝わったとするものがあります。
昔の朝鮮(新羅の時代以降)で用いられた表記法に、吏読(りと)と呼ばれ、漢字の音訓を用いて朝鮮語の助詞や助動詞を書きあらわしていたものがありましたが、その表記の中で”良”を「ら」と読んでいたそうです。
仮名が生まれた時代と一致しますし、中国から伝来するものは、朝鮮を経て伝わるものが多かったとう背景があるからです。
なお、カタカナの「ラ」も漢字の良からできましたが、この場合、良の最初の2画から生まれました。
ひらがなの”り”は漢字の”利”からできました。
”利”を続け書きして崩して行くことで、禾(のぎへん)が”り”の左側の縦棒に、漢字の”利”の「リ」の部位は、ひらがな”り”の右側の縦棒になりました。
あくまで”利”の字の全体、即ち草体から”り”になったのであって、”利”の右側の部位からできたわけではありません。
”利”は、利害(りがい)や利益(りえき)のように「り」と読みますが、これがひらがな”り”の音になりました。
なお、カタカナの”リ”もひらがなと同様に、漢字の”利”から生まれましたが、その誕生の仕方が異なります。
上記の様に、ひらがなの場合は”利”を崩して書いた結果として”り”になりましたが、カタカナの場合は”利”のりっとう「リ」から生まれました。
つまり、ひらがな”り”とカタカナ”リ”は、似たような字体をしていますが、成り立った過程が異なるのです。
この違いは、ひらがなの”り”は、左右を続けて書くような字体(ひだりのハネが、右につながる形状)をしていますが、カタカナの”リ”は、左右の縦棒がそれぞれ独立した字体になっている点に表れています。
ひらがなの”る”は漢字の”留”からできました。
”留”は、今はこのように書きますが、昔は”留”の「刀」の部位の代わりに「口」を書く字体や、「田」の上に「口」を横に2つ並べて書く字を書くのが一般的でした。
従って、当時のこのような字体から変化してひらがなの”る”が生まれたと考えるのが自然です。
また、”留”の異体字に”畄”という漢字がありますが、これもそれと関係しているようです。
”留”は、留守(るす)のように「る」と読みますが、これがそのままひらがなの”る”の音になっています。
ひらがなの”れ”は漢字の”礼”からできました。
”礼”は、しめすへん「ネ」で構成されていますが、「ネ」を略して書くと、手偏(てへん)の横棒が無いような形状になり、右側が略された形状とつながって、ひらがなの”れ”になりました。
実際は、奈良時代には”礼”のしめすへん「ネ」の代わりに、のぎへん「禾」を用いる字体がよく書かれていましたので、その字体から変化したと考えるべきだと言われています。
これについては、漢字の”祢”からひらがなの”ね”が生まれたのと同じです。
「礼」は礼節(れいせつ)、礼儀(れいぎ)などのように「れい」と読みますが、「れ」の一音だけを用いてかたかなの”れ”の読み方になっています。
なお、カタカナの”レ”もひらがなと同様に、漢字の”礼”から生まれたと言われていますが、この場合は”礼”の右側が変化したと言われています。
ひらがなの”ろ”は漢字の”呂”からできました。
”呂”にある二つの「口」を続けて崩すように書くことで”ろ”となりましたが、当時の”呂”は「口」と「口」の間にある「ノ」がなくて「吕」という字体で、ここから変化したと言われています。
”呂”は、風呂(ふろ)や登呂(とろ)などのように「ろ」と読みますが、これがそのままひらがなの”ろ”の音になっています。
なお、カタカナの”ロ”もひらがなと同様に、漢字の”呂”から生まれましたが、この場合は”呂”の画の一部からできました。
わ行
ひらがなの”わ”は漢字の”和”からできました。
”和”の左側の「禾」からそのまま右側の「口」に続けてかくことからひらがなの”わ”が生まれました。
この際、「禾」の書き順は、通常の「ノ」の後に「一」を書く順ではなく、「ノ」の後に「|」を書く順で書いたことから「口」につながって”わ”の字体になりました。
通常の書き順だと”わ”のような字体にはなりにくいことがよく分かると思います。
同じような流れで似たような形状のひらがなになったのが、”ね”と”れ”です。(上述を参照)
”和”は、平和(へいわ)や昭和(しょうわ)などのように「わ」と読みますが、これがそのままひらがなの”わ”の音になっています。
なお、カタカナの”ワ”もひらがなと同様に、漢字の”和”から生まれたという説がありますが、”ワ”になった説については諸説があります。
ひらがなの”ゐ”は漢字の”爲”からできました。
”爲”は”為”の旧字(異体字)に相当し、現在では”為”が使われますから、字源としては同等の意味になります。
旧字と言う意味で”爲”が字源だと言う方がよいと思いますが、実際の字体の変化としては、”為”の草体が簡略化されたとする方が自然です。とは言え、実際の草体では、”爲”も”為”も同じような字体をしています。
”ゐ”は”為”を大きく崩してかなり簡略化されていますのでイメージしにくいですが、”ゐ”は確かに”為”から生また字です。
”為”の4つの点「灬」を囲っている形状が”ゐ”の曲線に残っているのが分かると思います。
”為”は、行為(こうい)、為政者(いせいしゃ)などのように「い」と読みますが、これがそのままひらがな”ゐ”の音「い」になっています。
”ゐ”は現在では”い”に統一されていますが、昔の仮名遣いでは分けていました。
ひらがなの”ゑ”は漢字の”惠”からできました。
”惠”は”恵”の旧字に相当し、現在では”恵”が使われますから、字源としては同等の意味になります。
旧字と言う意味で”惠”が字源だと言う方がよいと思いますが、実際の字体の変化としては、”恵”の草体が簡略化されたとする方が自然であるため、ここでは”恵”からの変化として説明します。(実際の草書体では、”惠”も”恵”も同じような字体をしています)
”恵”を崩して書くなかで、”恵”の上部が「る」のような形状に変化し、「心」の部位がそれとつながって”ゑ”の字体になりました。
”恵”は、知恵(ちえ)、恵比寿(えびす)などのように「え」と読みますが、これがそのままひらがな”ゑ”の音「え」になっています。
”ゑ”は現在では”え”に統一されていますが、昔の仮名遣いでは分けていました。
なお、カタカナの”ヱ”もひらがなと同様に、漢字の”恵”から生まれたとするのが有力な説になっています。
ひらがなの”を”は漢字の”遠”からできました。
”遠”から”を”ができたことはイメージしにくいですが、”遠”を筆順に崩して書くことで”を”になりました。
”遠”も”を”も、最後は筆を左から右に横に走らせる点に字源の面影が残っています。
「遠」は久遠(くおん)、遠国(おんごく)などのように「おん」と読みますが、古い仮名遣いでは「をん」と書いていました。
この「をん」の「を」の一音だけを用いてひらがなの”を”となりました。
ひらがなの”ん”は漢字の”无”からできました。
”无”は横棒二本「ニ」を書いた後「ノ」と「乚」を書きますが、続けて書く中に「ニ」の部分が小さくなって「ノ」と「乚」がつながってひらがなの”ん”になりました。
漢字の”无”は”無”の古文異体字で、古くは”無”と同じとして通用する漢字でした。
昔は”无”は”無”の略字でもあったため、仏教用語である「南無」を「南无」とも書いていました。
従って、”无”は無理(むり)、無視(むし)などのように”无”の異体字である”無”と同じ「む」の音を持っていました。
仮名が発達した時代には「ん」という音そのものは無く、11世紀に入ってから「ん」という音が使われるようになった結果、「ん」に近い音を持つ「む」の仮名が転用されるようになりました。
また、ひらがなの「ん」は漢字の「无」に由来するとは言われていますが、”毛”が由来という説もあります。
これは上述の「南無」を昔は「なむ」ではなく「なも」とも読んでいた場合などがあって、”毛”の音「も」も、「ん」の音に近い音とされていたからです。
なお、カタカナの”ン”もひらがなと同様に、漢字の”无”から生まれたとする説があります。