統計不正で支持率が変らない理由は「国家に人材がいない」こと。

統計不正問題が発覚してから色々と騒がれていますが、最近の内閣支持率の調査では、これを原因とした支持率低下は微小で、ほとんど影響は出ていないと言われています。

これだけの問題でありながら、支持率がほどんど低下しないのは不可解だと感じ、なぜ支持率が変わらないのか、低下しないのかについて考えてみました。

統計不正がありながらなぜ支持率が変わらないのか

その理由には様々あると思いますが、最終的に出た結論としては、「現代の日本国家に人材がいないこと」との答えでした。

統計不正問題とは

そもそも「統計不正問題とは何か」をひと言で簡単に言えば、「意図的に統計データが良くなるように操作して、景気が良くなっているように見せようとした」との疑惑です。

実際この問題を耳にして、「やっぱりそうか!」と思った人も多いのではないでしょうか。

以前から、国民を対象に行ったアンケート調査などでは「景気回復を実感できない」と言う人が圧倒的に多いと言う結果がありました。

それにもかかわらず、政府の景気判断は「回復傾向にある」などと、良くなっているような判断をしてきていましたから、国民の感覚と政府の見解との間に大きな隔たりがあることに不可解な思いを抱いていた人も多いことでしょう。

そのカラクリが表に出てきたのですから、ある意味「やっぱりそうか!」と納得の思いを抱くのも当然です。

政府には、「政権を維持するため」という強い動機があったわけで、これだけでも十分な状況証拠とでも言うべきだと思います。

まして、担当者レベルにはデータを操作するような直接的な動機なんてあり得ませんし、何より後ろめたい気持ちがないのであれば、統計データの収集方法を予め堂々と公開すればいいハズです。

意図的にやったからこそ隠してきた、都合の悪い事実だからこそ表に出ないようにした、ただそれだけです。

統計データは処理できる

さてここで、「統計データはそんなに変わるものなのか?」という疑問を抱く人もいるかも知れません。

結論から言えば、本来は統計上のばらつきで多少は変わり得るものですが、対象となる内容や条件によっては、大きく変わってもきます。統計は、全体の集団の中から一部の標本を取り出して調査するので、標本の取り方次第で、結果が大きく違ってきます

例えば、日本人の意識調査を正確に把握しようとした場合、日本国民全員に対して調査すれば最も正確な結果を導き出すことができますが、現実的にはそのようなことはできませんから、全日本人の中から標本となる何人かを抽出して調べることになります。

この時、若年層ばかりを抽出すると、日本人全体の意識調査というよりも、日本人の若年層の意識調査という結果になり、中高年齢層が持つ意識が反映されない結果になってしまいます。

従って、より正確な結果を導き出そうとした場合、年齢層をまんべんなく抽出する必要がありますし、性別や職業や居住地域など、あらゆる種別を均等に含んだ標本を抽出する必要があります

景気の動向を判断する目的で企業の経営状況を調査する時に、ランダムにまんべんなく選ぶのと、都市部などの元気の良い企業に絞って選ぶのとでは、自ずと調査結果に相応の開きが生じるのは当然です。

標本に注意

このように、統計データは標本の選び方で大きく結果が変わって来ます。

よくアンケート調査などで、「無作為に選んだ〇〇人から回答を得た結果」などと断っているケースがありますが、このような説明が無いようなアンケート結果は、信憑性に欠けると言えます。

また、「〇〇人からの回答」の人数が多ければ多いほど、統計的なバラつきが少なくなりますので、より信憑性が高いと言えます。

また、標本の選び方を意識しないで得た統計データには注意が必要です。

例えば、「新宿の街角を歩いている人に声を掛けて、質問をした結果」といった統計データの場合、新宿に出やすい場所に住んでいる人、街によく出るタイプの人、声を掛けられたら応じてくれるような人、などが持つ意識がデータに反映されますので、調査内容によっては結果に大きな差が生じます。

統計データの場合、標本の選び方が最も結果に作用する要素ですが、これ以外にもデータの違いに影響を与える要素はあります。

例えば、アンケートの場合などでは、「無効回答の定義をどのように設定するか」とか、「生(なま)の回答を、どのように分類・整理するか」などがあります。

更に、いくつかの標本を何回かに分けて選び(統計データを複数回取得する)、バラつきのある得られた結果のうちから、最も有利なデータを採用するなどといった方法を採れば、統計データを操作することもできてしまいます。

いずれにしも、一般に、標本の選び方が最も結果に影響する要素だと言えます。

実例はどこにでもある

そして、統計データが作為によって作られた例は身の回りにたくさんあります。身近な例で分かりやすいのは、「内閣支持率調査」がまさにそれに当たります。

例えば、大手新聞社や大手放送事業者などはマスメディアとして大きな力を持っていて、それぞれが支持率調査結果を発表することがありますが、政権寄りのマスメディアほど支持率が高めに出る傾向があります

もし統計的なバラつきであれば、過去の調査結果を平均化すれば、どのマスメディアもほぼ同一の結果になるハズですが、政権にすり寄っているようなマスメディアは、必ずといって良い程、他と比較して高めになります。

説明は必要ないと思いますが、果たしてこうした結果を偶然と思う人はいるでしょうか。何らかの意図のもとで操作されているからこそ、このような差や違いが生じるのです。

これは一例ですが、統計データはもとよりバラつきがあるものですが、背後にある働き掛けや、何かしらの意図があれば、バラつきとは別次元で、何かしら偏った結果になります。そして、この種の統計データは、我々の身近なところにどこにでもあるものです。

支持率が低下しない理由

さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題に話を戻します。統計不正問題が起きてからも、ほどんど支持率低下がみられない理由は何でしょう。

統計不正問題が起きてから、「やっぱりそうか」と思う人もいれば、「今さら驚かない」、「呆れて物が言えない」、という言う人もいれば、「勝手にやってくれ」と無関心でいる人もいることでしょう。

このように、統計不正問題に対する反応は様々ですから、それに対する見解や意識についても人それぞれというところだと思います。

従って、現政権に対する思いも人それぞれとなるでしょうが、色々な思いがあっても、結果的に、支持率の低下に結びついていないと言う点では共通であるとの見方ができると思います。

これを分析するところ、まず言えることは、「支持率が低下しないとは言え、支持率そのものが低水準で推移している」という事実です。

つまり、色々な思いを抱く人の多くは、支持しない側の人の思いなのです。言い方を換えれば、支持を続ける人が少なからずいて、それらの人達の意向が変わらないという見方ができるでしょう。

つまり、指示を続ける人がなぜ支持し続けるのかを見れば分かりやすく、その理由は大きく3つあると考えます。

その3つとは「利害・癒着・思想があること」、「茹でガエルの如くの人がいること」、「国家に人材がいないこと」が挙げられるでしょう。

そして、その究極の理由とはまさに3番目の「国家に人材がいないこと」が一番の理由と言えます。

利害・癒着、思想

これは最も分かりやすい理由です。現政権と利害関係にある、あるいは癒着している、又は支持政党であるといった理由から支持を変えないという意味です。

政権与党と何らかの利害関係を持ち癒着しているような人や団体などは多く存在しますが、それらの人や団体は、政権を維持してもらわなければ利益を損ねてしまうわけですから、支持し続けるのは当然と言えば当然です。

原発利益共同体などはその典型と言えるでしょう。

また、「政党ならここ」といった支持政党があり、それ以外の政党や人は絶対に支持しないような、強い信念や思想、或いはこだわりがあるような人も、支持政党は変えません。信念などが強い分だけ、統計不正などを問題視しないということです。

いずれも、支持を続ける強い理由があることによります。

茹でガエルの如く

さて、現政党の国会答弁などを聞いていて、「もういい加減にしろ!」と呆れている人、嘆く人、怒りを覚える人、無関心な人などは多数いることと思います。

しかし、そんな中にもまだ盲信のような感覚を持っている、一部おめでたい人がいるのです。そんな人が口にする言葉でよく耳にするのは「疑惑を決定的にする証拠はない」などですが、嘘を見抜く力が著しく欠如しているだけです。

嘘に慣れて騙される

それはあたかも「茹でガエル」の如くです。もし、カエルを茹でようとした場合、いきなり熱いお湯に入れると、カエルはびっくりして熱湯から飛び跳ねて出て行くと言われています。しかし、冷めた水の状態から徐々に沸かして行くと、あまり熱さを感じず、気付いたら茹で上がるのです。

これと同じように、嘘を言う者が「嘘ではない」と確信もって言い切る姿を見続けていると、だんだんその姿に慣れて来て、嘘を見抜けずに騙されてしまうということです。

たとえ嘘でも、10回、20回、30回と堂々とした姿で言い切られると、聞いている方は、やっぱり嘘ではなく本当なのかと思い込まされてしまうのです。

国会答弁などで、しらを切り、はぐらかすことを正々堂々と繰り返されることで、あたかも茹でガエルの如く、「嘘はついていないのだ」と錯覚させられてしまうのです。

ある調査によれば、統計不正を疑わしいと思っている人は、70%以上いたのに対して、疑わしいと思っていない人が7%余いたとのことですが、森友、加計問題などを背景として起きた問題にも関わらず、7%もの人が茹でガエルのようにされてしまっているということです。

現政権でいわれているいずれの疑惑においても、不正を行った担当者レベルの人達には全く動機が無く、その一方で、疑惑のある首相には十分すぎる動機があります。

そして、権力や立場を利用して、各種団体や人物に対する働き掛けや操作、あるいは圧力などを掛ける構図も浮かび上がっているとも言われています。

ごまかし論法は滑稽

なによりも国会答弁における、ごまかしばかりの論法を聞いていれば中高生でも嘘だと分かる内容です。

私が滑稽だと感じるのは、「なぜ?」との問いに対する答えが理由でない、「どこ?」との問いに対する答えが場所でない、「いつ?」との問いに対する答えが日時などではない、「だれ?」との問いに対する答えが人物でないなど、「きちんと日本語を話せよ!」と言いたくなるくらい国語レベルのない回答を繰り返すことです。

漫才やお笑い芸人の話を聞いているよりも面白いですよね。

例えば

なぜ?…そのような質問をされましても、全く理由がないのですから回答しようがありません。
どこ?…場所などは重要な問題ではありませんから、回答する必要はありません。
いつ?…人間の記憶というのは曖昧でして、正確な時期などを記憶するのはなかなかできないことです。
だれ?…誰と言いましても、立場上色々な人と接している訳ですから、どんな人とでも関わるのは自然なことです。

といった具合です。要するに、はぐらかしだけです。

このような「なぜ?」「どこ?」「いつ?」「だれ」といった質問に対する、正しい話し方は、会話能力がとても低い幼稚園児でもできることですよ。例えば、

なぜ、ご飯を食べないの?…お腹が空いていないから
幼稚園の遠足、どこへ行ったの?…青空公園へ行った
最後におしっこしたのいつだった?…幼稚園から帰る前にした
だれと遊んだの?…〇〇君とお絵かきしてた

幼稚園児でもできる会話なのに、大の大人ができないという点だけを見れば、まさに知的障害者ですね。単純に言えば、我が国の首相は知的障害者がその任に当たっているってことです。

もちろんこれは皮肉っただけですから、現実は違います。

更に分かりやすい例は「是か非か?」との問いに対する答え、「どちらでもない」です。簡単に言えば「是」といえば疑惑を認めてしまうことになるから言えない、「非」と言えば事実とは異なる矛盾したことになるからこれも言えない。だから「どちらでもない」になるのです。

誤魔化し論法って、「国民をバカにするのもいい加減にしろ!」と、本当に聞いてて腹立たしくなりますが、見方を変えればお笑い芸人よりもはるかに面白く滑稽ですね。

面白いテレビ番組がなくて退屈だと言う人は、上記のような見方で国会答弁を視聴してみるのもいいですよ。

国家に人材なし

さて、話を元に戻して、利害・癒着、思想によって支持を続ける人々や、茹でガエルの如く騙され続けている人達がいたとしても、ここまでの支持率になるでしょうか。

恐らく、これらの人だけでは、ここまでの支持率にはならないでしょうし、支持率が更に下がらないのには理由があるはずです。

その理由こそ、まさに「国家に人材がいない」からです。

さて、ここにとても興味深くおもしろいのは、先にあげた「統計不正を疑わしいと思っている人は、70%以上いる」という調査結果です。

この数値は、政府に不信を持っていることの現れですが、「不信を持っていながら支持をする」という、常識では考えられない実態が表れてもいます。

改めて考えてみて欲しいのですが、世間一般の事柄で、果たして信用できない人を支持することがあるでしょうか?答えは「No」です。

では、なぜ信用できないような政府を支持するのでしょうか。それこそ、代わりになれる人がいない、つまり、国家に人材がいないからです。政府を信用していない人が7割以上いる一方で、政府を支持する人が半分いるとは、これは異常以外の何ものでもありません。

このように国家に人材がいないことは、実際に誰しも感じていることでしょう。これは、まさに国家にとっての大きな悲劇でもあります。

何でここまで腐った政治家ばかりになってしまったのか、何でここまで器のない者ばかりになってしまったのか、嘆かわしいばかりですが現実です。

国家に人材がいないことが表れた姿のひとつに、維新の会があります。初めて維新の会が台頭してきた時に、「腐った政治を変えてくれるのではないか」と、一部の期待を抱いた人もいることかと思います。

しかし、結局のところ、最初に立ち上げた人物がいま何をしているかと言えば、ただの芸能活動です。端的に言えば、「腐った政治を絶対に変える」などと言った、信念などが全く無かったからこそこのように成り下がったのです。

そして、国家に人材がいなくなってしまった激動の今日ですが、いったいいつからこのようになってしまったのでしょうか。その歴史をさかのぼるのなら、恐らく昭和40年代から変節を遂げたといえるのではないでしょうか。

それまでの時代は、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、など器のある政治家が多くいました。しかし40年代からはどんどん小粒になり、今に至ってはもう末期症状的です。昔のことをよく知る、80歳台の人などに話を聞くと、「最近の政治家はどうしようもない」と言います。

これもひとつの時代の流れのひとつで、歴史から学ぶならば、世の中が大きく乱れるところまで行って、民衆の大きな力によって腐った体質を崩して全く新しい時代を迎えて行くのだろうなぁと感じつつ、それまでの間、いつまで混迷を続けるのだろうと憂えるところです。

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