最近、週刊誌などが地震予測の記事を掲載する際に、立命館大学の教授である高橋学氏の学説による見解をとりあげるケースが目につくようになりました。
そして、実際の予測があまり当たっていないことを理由に、非難する声が目立ちます。
そんな非難する記事などを見ていて、地震予知や地震予測の「当たる当たらない」にスポットが当てられていると感じます。
しかし、そもそも現代の科学力では地震予知などできない、地震予測すら極めて困難だということをまず認識するべきだと感じます。
予知は不可・予測も困難
そもそも地震予知というものは可能なのでしょうか。答えはNoです。
地震予知とは、地震の発生を予め知ることですから、現在の科学力では不可能というべきでしょう。
では、地震予測は可能でしょうか。答えはYesですが、実際に的中させるのはきわめて困難です。
地震予測とは、地震の発生を予め推し測ることですから、予測すること自体は誰でも可能ですから答えはYesになりますが、予測した内容が実際に当たるかというと、これは難しいのです。
日本は地震国と言われ、地震に対する対策は重要ですから、地震の予知・予測に対する研究なども何年にも渡って続けられてきました。また、今なお続けられています。
それこそ、地震に対する研究費用などへの投資は、相当な額に及び、各研究・学術機関が色々な角度から、地震の予知・予測に対する技術向上に努めて来ました。
しかし、未だ
「この予測方法なら高確率で地震を的中できる」
といった方法などは、全く見つかっていないのが現実です。
天気予報ですら限界がある
よくよく考えてみれば、比較的容易とされる天気の予測・予報ですら正確に当てるのには限界があります。
従って、これと比較すると地震予知・予測が如何に困難であるかが、良く分かると思います。
例えば、気象予測の場合は、気象衛星からの映像や気象レーダからの情報、各観測点における気温や湿度、気圧などと言った、非常に多くのデータがあり、これを過去の統計データとつき合わせながら、スーパーコンピュータで気流の流れを予測して、気象予測をします。
一方、地震の場合は、本来、地表より内側の状態を知らなければ正確な予測はできないはずのところ、地下の状態に関する情報が乏しく、どちらかと言うと、表に現れてくる震動や火山活動などの、限られた情報だけで予測しなければなりません。
この点だけを見ても、地震予知・予測が条件的に、いかに困難なことであるかが、良く分かると思います。
確かに、地震予測の中には、時としてうまく予測して的中する事例はあります。
しかし、それは可能性と確率の問題であり、因果関係の強い現象をうまくとらえることができた結果として的中しただけで、決して普遍的な予測方法というものではありません。
予測の進んだ気象の分野においても、
「台風が思いのほか発達せずに想定した災害にはならなかった」
とか、
「寒気が南下したため予想に反して雪が降った」
など、外れることもしばしばあるくらいです。
従って、予測技術が確立していない地震においては、それが「当たる当たらない」を論じることは、あまり意味がありません。
的中を問題視することが問題
以上のように、地震予測というのは、あくまで可能性であり確率論の問題と捉えるべきです。
従って、そもそも当てることが難しく、当たらなくて当然とも言えることに対して「当たらない」などと批判すること自体が的外れと言えます。
では、
「当たらない可能性があるようなことを発言するのは、混乱を生じさせたたり、不安を煽ったりするだけだ」
という批判は最もではないかという議論があるかと思います。
しかし、これは受け取る側が、発言した人の意図をしっかりと認識すべきことであり、発言した人をいたずらに責めるのは筋違いと考えます。
つまり、当たらない可能性のある情報をそのまま受け止めて、勝手に混乱するのは受け止める側の責任でもあります。
そもそも、不安を煽る云々を論じる以前に、地震国日本に住む以上、いつ発生してもおかしくない、常に備えるべきことが地震対策と認識すべきでしょう。
要は、情報を受け取る側は、地震予測は的中するほど技術が進んでいないことを弁えるべきです。
また、地震予測の情報の有無に関わらず、「天災は忘れた頃にやってくる」わけですから、いつ地震が来ても良いくらいの対策・心構えは日頃からしっかりしておくべきことです。
とは言え、現実に混乱をする人もいるでしょうし、不安を持つ人もいることは事実でしょうから、これは問題なのではと思う人もいることでしょう。
しかし、高橋学教授が、何ら根拠のないところに、いたずらに地震予測を公表していると言えるでしょうか。
根拠があってのこと
同教授の本来の専門は環境考古学で、環境史や土地開発史、災害史などの分野に長けていると言われています。
しかし、そのー方で、幅広い分野に目を向け、災害予測や都市計画を検討する研究をしています。
そして、学生に対しては、土地の履歴に基づいた災害研究や気候変動研究、人口問題や食料問題、そして都市環境の研究を促しています。
更に、歴史地理学会、地理科学学会、東北地理学会、人文地理学会、日本地理学会などの会員となっており、地理学については専門と言えるでしょうし、それらの視点から災害予測を研究しています。
以上から、地震学そのものは本来の専門ではないとは言えるかも知れませんが、地理学や災害史に基く災害予測を研究している実績があり、そういう視点から地震を予測する分野については専門家ともいえます。
当然、それ相応の見識を持っていると言えます。
実際に公表している見解を見ると、過去の地震の規模、場所、発生時期などの多くのデータから、それぞれの地震の相関関係を分析した結果、つまり歴史上の事実をもとにしており、むしろ信憑性を否定する方に無理があるのではないでしょうか。
従って、根拠のないところに、いたずらに予測を公表しているという見方をすべきではありません。
もし、物事を正確に見ようとするのであれば、マスコミ側が営利目的で、必要以上に大げさに情報を発信している影響の方が大きいと見るべきでしょう。
憂えることの重要性
さて、では高橋教授がなぜここまで地震予測をしきりに公表しているのでしょうか。
私には、災害予測や都市計画、自然災害、防災学などを研究していることから、真剣に安全な生活を考える心から発しているように思えてなりません。
つまり、学術的な功名心や探究心というより、純粋に災害を憂える姿勢を強く感じるのです。
現在、同教授は南海トラフ大地震について言及していますが、この地震が与える影響は計り知れません。
地震の専門家で南海トラフ地震を否定する人はいない位ですから、問題は「起きる起きない」ではなく「いつ起きるか」です。
この地震は日本の過去の地震の履歴を追えば、ほぼ周期的に起きている地震でありながら、次回発生するであろうとされる時期を既に迎えているという事実から、油断のできない状況であることは間違いありません。
しかも、周期的に考えても、今まで蓄積されてきたエネルギーはとても大きなものなので、今度発生する地震の規模の大きさ、被害の甚大さは本当に深刻なものです。
見方を変えれば、こうした被害の甚大さが想定されながら、未だ危機感がまだまだ低い政府こそが問題で、そこに「誰かが声を大にして言わなければならない」現実があります。
つまり、誰かが警鐘を鳴らすからこそ、その低い意識を高めることができるのではないでしょうか。
もし南海トラフ大地震が起きれば、被害者数は無数となり、経済的損失額も未知数で、国家予算の何倍にも相当するとも言われています。
東日本大震災ですらその傷跡は未だ癒えていない状態ですが、それよりもはるかに甚大な被害を及ぼす地震ですから、警戒しすぎてしすぎることはありません。
また、「対策はこれで充分」と言えるようなものでもありません。
まして、経済が低迷し続け、財政赤字も膨張しつつある現在において、そのようなかつてないような大地震を受けたなら、国家の存亡にすら関わるとの認識を持つべきです。
そうした事の重大性を思った時、誰かが言わなければならないことを高橋教授が声を大にして実行していることは、大きな評価に値すると考えます。
見方を変えれば、事の重大性があるからこそ、公表の仕方がどうしても大げさになりがちになってしまうとも言えるでしょう。
もし、地震予測が外れれば、大学教授という立場や研究者としての面子や権威が下がることは高橋教授自身が一番分かっているハズです。
分かっていながら、敢えて声を大にして叫ぶことは、逆にとても勇気のいることです。
以上、私が感じるままに筆を進めて来ましたが、要約すると、
- 地震予測は技術として確立されておらず、当たらなくても普通のこと
- 予測が当たらなくても、相応の根拠があると認識して、大災害に備えることが大切
- 地震が起きた時の重大性こそしっかり認識すべきこと
皆さんも、予測が当たる当たらないという視点を変えて、見つめ直してみては如何でしょう。