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日常茶飯事起こる児童虐待。しつけと単なる暴力は何がちがうか。

先日もニュースで、児童虐待で親が逮捕されたという報道がされていました。今やこのような報道は頻繁にされていて、収まる感じはありません。

こんな事件で、必ず容疑者が弁解する言葉として「躾(しつけ)としてやった」が決まり文句用にもなっていますが、報道内容を見ていると、「本当かよ?」と思う内容が多いと感じます。

しつけと単なる暴力は何が違うか

では、「『しつけ』としての身体的接触」と、「単なる『暴力』」とでは、いったい何がちがうのでしょうか?似ていて非なるこれら2つについて、違いを判断する基準について考えてみました。

言葉だけのしつけは無理か

両者の違いを論じる前に、そもそも、しつけに身体的苦痛を伴う行為は必要か、という議論があるかと思います。しつけ、そのものは意味として「礼儀作法を教える」ことに当たりますので、必要はないかと思います。

しかし、子供を養育する上では、教えるべきことはしつけ以外にも多くあり、時として「身体的苦痛を伴う行為」も重要になることがあるハズです。

現代では、身体的な苦痛を伴う行為は「全てダメ」というような風潮が、以前より強くなってきたと感じていますが、時として重要な役割を果たすことはあると考えます。

例えば、自分の子供が、電源コンセントに何か物を差し込んで遊んでいる場面を目撃したとします。即座に、手をひっぱたいて止めさせる、なんて行為は、親として当たり前のようにやる人も多いのではないでしょうか。

また、自分が幼少の頃、親に叩かれたことで、却って愛情を感じた、なんて経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。

親が本当に子どものことを思ってとる行動は、時として、身体的苦痛を伴ったとしても、常識的な範囲では容認されてしかるべきかと思います。現在は、必要以上に過敏になりすぎている気がします。

しかしながら、しつけの名のもと、とても容認できるような行為でない事件が、とても多く発生しているのも事実です。昨今、ニュースで取り上げられている虐待などは、まさにその典型だと感じます。

単なる暴力との違いは

では、しつけ等の養育上の行為と、虐待に当たる単なる暴力とでは、どこが違うでしょうか。以下、両者の違いを判断するための基準を3つあげました。

感情で行動していないか

まず、何よりも親が子供に対して、感情で行動していないかどうかが大きな基準になるでしょう。

子供が親の思うような行動をとっていないから、イライラしてつい手を出してしまう、こんなケースはしつけとは、言い難いでしょう。

親も人間ですから、ついつい感情的になってしまう面があるものですが、とはいえ、感情だけで行動をとるのは、決して最良の養育手段とはいえません。

親は親なりに、感情に流されない強い理性と忍耐力を持って、「まだまだ、小さくて理解が及ばない」とか「成長の過程でまだそこまでできない」等と、自分自身に言い聞かせて、辛抱強く、言葉で叱咤したり、激励したり、諭したりして、手を出すことは控えたいものです。

ニュースで報道されるような虐待などでは、親の感情的な行動が目に付くのを見ても、感情で行動しているかどうかは、適切な行動であるかどうかの大きな物差しと言えるでしょう。

親の都合でないか

次に、子供をしかる時に、親の都合による場合と、子供のことを本当に思っている場合と、大きく二つに分けられると思いますが、このうちどちらに該当するかが一つの基準になるでしょう。

もちろん実際は、どちらにも該当する場合が多いと思いますが、肝心なことは「単なる親の都合」かどうかが判断の目安となるでしょう。

例えば、外出先で子供が騒いでうるさい時に、まわりに迷惑をかけることが親として恥ずかしいから叱るのと、うるさくすると迷惑を掛けてしまうことを子供にしっかり教える必要があるから叱るのとでは、その意味合い、趣が自ずと違ってきます。

「子供に教える」という姿勢を取らないで、単にうるさいから叱るのでは、親の都合による趣が強く、しつけや養育とは少しずれてしまいますね。

通常は、親の都合があったとしても、子供に成長して欲しいと願う心もあるものですから、大事なことは、単に悪いと叱るのではなく、どこが悪いのかをしっかり教えるという意識を持って接することでしょう。

ニュースで報道されるような虐待では、親の都合による行動が目立つもので、中には親の身勝手によるものも多いと感じます。そんな姿を見ても、単なる親の都合かどうかは、適切な行動であるかどうかの1つの尺度になるでしょう。

親も痛みを感じているか

子供に手を出す時に、本当に子どもに対して慈愛を持っていると、手を出している親も痛みを感じるものです。これは単に、叩いている手が物理的に痛むことを意味しているのではなく、叩かれる子供以上に、親として自身の心にも痛みを覚えるということです。

本当に子どものことを考えている場合、親は「心を鬼にして」のような姿勢があるものですから、そういう時には、叩く親も子供の痛みが良く分かるだけに、親自身も心が痛むのです。

子供のことを思わないでとる行為には、親の心にはこのような痛みは生じないことが多いものです。心の痛みを覚えながらも、子供のためにあえて厳しく叱る。だからこそ、子供はそこに親の愛情を感じるのではないでしょうか。

ニュースになるような虐待では、容疑者の姿を見ていても弁解がましい感じがして、心が痛んでいるような姿は感じられません。親自身が心に痛みを感じるかどうか、これこそ適切な行動であるかどうかの違いが一番でるところではないでしょうか。

まとめ

以上、「『しつけ』としての身体的接触」と、「単なる『暴力』」との違いを判断する基準について述べてきました。

親であれば、養育上、「正しかったのかどうか?」と、自身の子供に対する姿勢に、自問自答を繰り返すことも多いのではないでしょうか。

つい手を出してしまった場合など、「果たしてこれで良かったのだろうか?」と感じたら、ここに示した判断基準に照らし合わせて、養育のあり方を見つめ直してみては如何でしょう。

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