今ほど、政治に対する「信」を失っている時代はないでしょう。
戦後を生き抜いてきた私の父も「今の政治家は全く信用できない」としみじみと述べているくらいです。
あそこまで嘘に嘘を重ねて、それでも嘘を認めず、肝心な問いに対しては「コメントできない」などといって、重要人物に対する証人喚問も拒否し続けています。
また、更に、嘘をごまかすために、権力や立場を利用して、あらゆる方面に圧力をかけたり、策謀をめぐらせたりする姿はミエミエで、国民はもういい加減にしてくれ、との思いでうんざりしています。
このように、政治に対する信が完全に失墜してしまっている昨今の姿を背景に、「信じる」とはどういうことかを考えてみました。
信じるとは
ではまず、「信じる」(信ずる) とは何でしょうか。
辞書(大辞林)でその意味を調べると、下記のような説明があります。
(1)そのことを本当だと思う。疑わずに、そうだと思い込む。
(2)信用する。信頼する。
(3)信仰する。
また、同様に「信」の意味を調べると、下記のような説明があります。
(1)うそのないこと。まこと。誠実。
(2)疑わない事。信用。信頼。
(3)帰依する事。信仰。信心。
次に、「信」の語源からの意味(漢字源より) としては、
言明や約束をどこまでも通すこと。前言をかえたり、途中で屈したりしないこと
をいい、漢字の「信」のうち、言は、言明の意味で、信は「人+言」で、一度言明したことを押し通す、人間の行為をあらわして、途中で屈することなく、まっすぐのび進むの意を含むそうです。
従って、「信」の意味には、のびる、のばす、つかえずにまっすぐのびる、などの意味もあるそうです。
以上から、「信じる」とは、うそのないことの意味から信用や信頼の意につながっていることが分かります。
更に、上記から信じるとは「疑わないこと」を意味することが分かりますが、これこそが信じるの定義とも言えるのではないでしょうか。
改めて、”疑う”の意味を大辞林で調べると
本当かどうか怪しいと思う。不審に思う。うたぐる。
とあります。
怪しさや不審があれば、落ち着かないですよね。
もし、怪しい人や不審者を見かけたら、気持ち悪いハズ。
信じることが、これの裏返しだと考えると、信じることって凄く大事だと痛感します。
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信じることがいかに大事か
「信じる」の「信」は、儒教の教えの五常(仁・義・礼・智・信)の1つです。
五常は、人が守るべきとする5つの道徳で、そのうち「信」は、言葉と行動が一致して嘘偽りがないことです。
換言すれば、言明を違えず、誠実で、約束を守るなど、人間としてあるべき道徳のひとつを表しています。
ようするに、あらゆる道徳の中でも基本となる教えのうちの1つといえ、そういう意味で、「信」がいかに大切か分かります。
小さい子供に最初に教える道徳教育の1つに「嘘をついてはいけない」というものがありますが、それだけ大事だということを表していますね。
嘘や偽りがなければ、自然に信頼を得ますし、信用がそなわってきます。
信頼や信用がそなわってくれば、そこに人同士の絆も生まれて来ますし、自ずと人間社会のしっかりしたつながりも生まれ、それが社会の基礎をなすともいえるでしょう。
反対に、嘘や偽りがあれば、自然と信頼や信用を損ない、人間同士の関係を破壊するものですから、嘘の内容や範囲が大きければ大きいほど、社会全体に与える悪影響も大きくなります。
これらを念頭に今の政治に目を移してみると、国のトップに立つ者が、幼児期に習う道徳の基本中の基本を踏みにじり、国民一億二千万人に対して嘘に嘘を重ね続けて行くことがあれば、もはや国政が成り立たなくなるのも当然ですね。
嘘がバレバレなのに、権力にしがみつく姿にはあきれてものが言えませんが、自分の置かれている状況も読めない現状となっては、もはや精神鑑定が必要なレベルではないでしょうか。
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「信」を含む熟語から見てみると
ではここで、信の意味を熟語から見てみましょう。
今、信のつく熟語をいくつか挙げてみると、
信憑、信頼、信用、信義、信任、敬信。信仰、信奉、信教、信愛、篤信、信服、信認、音信、信号
など、無数の言葉が存在することが分かります。
この中には、信じることの意味から外れる言葉や、信仰の意味で使われる熟語もありますので、それらを除く同義語の意味を示すと(大辞林)、
信頼:信じて頼りにすること
信用:確かなものと信じて受け入れること
信任:信用して物事を任せること
信認:信頼して認めること
とあります。
これらの熟語の意味を見ると、
信じるから頼れる
確かなものだから受け入れられる
信用するから任せられる
信頼できるから認められる
のような解釈ができます。
これらを端的に言えば、信じられなければ、頼れない、受け入れられない、任せられない、認められないということになります。
逆に言えば、信じることが、頼ること、受け入れること、任せること、認めることにつながっていると言えますから、信じることがいかに重要かがよく分かります。
今の政府は、頼れない、受け入れられない、任せられない、認められない、状態ですから、まさに言葉の通りという感じです。
そして、四字熟語を見てみると「必ず約束を実行すること」の意味を持つ移木之信(史記)があります。
他にも、「約束を必ず守ることのたとえ」として尾生之信という言葉もあります。
いずれも、約束を守ることの大切さが表れていますが、発言に責任を持たず、約束を破り続けた結果が政治家なのだと実感させられますね。
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人間生活の全ては信で成り立つ
さて、以上述べてきたことから「信」そして「信じる」ということが、いかに大切かがとてもよく分かります。
しかし、実際に我々の日常において考えた場合、大切というよりもむしろ、信じることで生活が成り立っているといって良いのではないでしょうか。
例えば、学校で勉強する場合に、「この教師は嘘を言ってないだろうか?」などと疑ってかかったら、学習も学問も進むものではありません。
信用できなければ、勉学の内容を理解するしない以前に、学ぶことそのものがまともにできないことになります。
また、「妻が作った料理、毒が入ってないだろうか?」などと考えたら、社会生活の基本をなす、家族、家庭という生活すら成り立ちません。
日々の生活ですら、その根底に、信頼関係や信用の絆があって、初めて成り立つことが分かります。
更に、勤務先の会社に対して「きちんと給料を支払ってもらえるだろうか?」と不信を抱けば、仕事に打ち込めるものではありません。
そして、結婚も相手を信頼するからできるのですね。
「もっと相手のことが分かったら、もっと相手のことを理解したら結婚しよう」などと考えていたら、いつまでたっても結婚できるものではありません。
結婚も、相手を理解することは大事でも、最後は相手を信頼・信用して決めるものです。
以上のように、人間の生活は全てが信じることで成り立っているといっても過言ではないでしょう。
ある意味、信じることは、理解すること、納得すること、知ること、覚えることなども含む、あらゆることを成り立たせている根本の要素ともいえるでしょう。
政治不信を背景に「信じる」ことの意味を改めて考えてみましたが、「信」そして「信じる」ことの重みを再認識した思いです。
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